スリープレス・ブルー

※硝子→夢→冥


 放っておくと何も食べないから、そう言って名前は私に夜ご飯を作ってくれる。毎晩、名前の部屋に行くのが常になっていた。夏油に硝子は名前に依存している、と言われたけれど、私たちはそれでよかった。
「好きな人ができたかもしれなくて」
 行儀よく丁寧に夜ご飯の片付けをしながら名前は言った。
 硝子には言いにくいんだけど、と続く言葉に、ただ耳を疑う。名前に好きな人ができた。それは、私の恋の終わりを意味している。
「……もしかして五条か夏油?」
「違うちがう! あのふたりのこと好きになるとか、ありえないでしょ」
「だよねー」
 ひとまず胸を撫で下ろした。あのふたりのどちらかだと言われたら、四人でいる時間が苦痛を伴うものになっていたかもしれない。
 でも、それじゃあ、名前は誰を。

「ねえ、笑わないでよ。あのね、……冥さん」
 気の抜けた甘いだけのコーラを飲んでしまったように、黒い何かが身体に流れていく。溺れた時にはきっとこんな気持ちになるんじゃないかと思った。世界から見放されて、息もできなくて、暗く孤独な場所でひとりで足掻く。
 聞き間違いを疑う余地すらなかった。はっきりと名前はあの人の名前を口にした。私から見ても、美しく気高い冥さんの名前を。少しのためらいとありったけの愛を込めて。
 それなら、五条や夏油のことを好きになったと言われた方がましだった。男のことを好きになったと、そう言われたなら諦めることができたかもしれないのに。言葉が胸あたりにつっかえて出てこない。ようやく絞り出した声はきっと震えていたと思う。
「女の人、好きなの?」
「違うよ。冥さんだから、好きになったんだよ」
 ああ、私は、選ばれなかった。

「この前ね、冥さんとふたりで任務に行った日の夜、ホテルのベッドの上でケーキを食べたの。冥さんが誘ってくれたから。いちごがたっぷり乗ったタルト。わたしは三角座りで、冥さんは足を崩して」
 淀んだ空気を入れかえるように自然に、わたしは名前の隣からいなくなっていく気がする。
「今までそんな行儀が悪いことしたことなくて。夜遅くまでふたりで話しながら食べたの。あまくて、贅沢で」
 どうしようもない、暴力的であると感じるほどの引力で惹かれてしまうことの恐ろしさ。足元が見えなくても歩みを止めることができない、抗えない出会いというものはこの世に確かに存在している。私も、すさまじい引力を携えた名前という人間に出会ってしまったから、わかる。
「悪いことするような、わくわくするような、不思議な気持ちだった。楽しかったな。そんな気持ちになったのはね、冥さんと一緒だったからだと思う。恋だと、思うの」
「……もっと悪いこと、教えてあげよっか」
「硝子が?」
「うん」
 たとえばね、私が手を伸ばせば名前と指を絡めることができる。シーツに細い腕を縫い付けることだって、無理矢理に唇を重ねることだって、私にはできるの。
「……うそだよ。冗談だから」
 私たちの間にある、たった三○センチの空白を埋めることさえできなかった。私に名前のあたたかな体温を知る権利は無い。友達のままでいるために、立ち上がって扉の方へと足を進めた。
「私、部屋、帰るね。ご飯今日もごちそうさま。おいしかった」
「硝子! あの、……冥さんのこと、また相談してもいい?」
 曖昧に笑うだけで返事はしなかった。これくらいの意地悪、許してほしい。

 自分の部屋に帰ると、そこには静寂が広がっていた。毎日この部屋で生活をしてきたはずなのに、世界は驚くほど一瞬で色を変える。
 出会うことと選ばれることは、必ずしも結びつくとは限らない。なんで私は出会ってしまったんだろう。なんで名前は冥さんと出会って、私を選ばなかったんだろう。
「私、きもちわる……」
 恋愛は普遍的な行為であるにも関わらず、どうしようもなく個人の問題だから、気持ち悪い。
 ひとりになった部屋で、ラッキーストライクに火をつける。
 名前がいつ来てもいいように私は自分の部屋で煙草を吸ったことがなかった。私はね、いつだって名前の前でだけは完璧な家入硝子でいたかったの。……もう無駄になっちゃったな。私は、選ばれなかった。これから先も。その事実が心臓を隙間なく埋め尽くしていく。
 ゆっくりと部屋を満たす白い煙に包まれて、私は座り込んだまま動けなかった。眠りについてもつかなくても、朝が来ればカーテンの向こう側に光が溢れる。今はただ、それが怖い。


20210813
スリープレス・ブルー
title by オーロラ片