ここで終わりたいです

 風邪をひいた。完璧に風邪だった。がらがらに渇いた声で硝子に電話した。
「日頃の無理がたたったんじゃない? 水分とって寝ていれば治るから」
 電話の向こうがわで家入さん急患です、という声が聞こえたので忙しいのにごめんねとだけ告げてスマートフォンを枕元に雑に置いた。みんな頑張っているのに、風邪をひいてしまうなんて。はやく治して高専にもどらなきゃ。家入先生の言う通りたくさん水を飲んで寝よう。こういう時のために、冷蔵庫の中にはペットボトルの飲料水がたくさん入っているのだ。
「あー」
 発音すると喉が痛い。自分の声じゃないみたいだ。あたりまえだけど、水を飲んでもその違和感は消えない。冷蔵庫の空気をまとった冷たい水を身体はするすると受け入れていく。
 風邪をひくなんて、何年ぶりだっけ。ましてや熱が出るなんて。ひとりで過ごすのには慣れているはずなのに、今だけはどうしようもなく孤独に思える。発熱した身体はパジャマの繊維と肌が摩擦するのも敏感にとらえて気持ち悪い。こういうときに思い出すのは決まってわたしがまだ子どもだったころのことだ。寝ているわたしの汗を拭ってくれたこと、鼻が詰まっているせいでいまいち分からなかったおかゆとりんごの味。もうどれくらいの間実家に帰ってないんだっけ。弱った時だけ思い出すなんて、自分勝手だ。横になると自然と眠気が襲ってきた。
 

「なんで」
 うとうとしていたところに鳴った呼び出しベルを聞いて、重たい身体を起こした。足を引きずって玄関まで行く。ドアを開けた先には冥さんがいた。
「名前のかかりつけのお医者さんがね、君のことを心配してたから。私が様子を見に来てあげたんだよ」
 かかりつけのお医者さん、ああ、硝子のことか。
「冥さんに、こんな姿見られたくなかった……」
「大丈夫、可愛いよ」
「うそだ」
 冥さんが来るってわかっていたなら、とっておきのルームウェアを着て、髪の毛の一本すら落ちていないことを確認して、キッチンをぴかぴかに磨き上げておいたのに。
「りんご剥いてあげるから、ちょっとだけ横になっておいで」
 冥さんがわたしの部屋にいる。わたしの部屋のキッチンに立っている。カウンター越しに冥さんがいる。同じ空気を吸っている。それだけで背筋がぴんと伸びる気がした。発熱で歪んだ視界の中でも、冥さんだけはちゃんと見える。背中の方におろした髪の毛一本一本の動きを見逃したくないな、なんて馬鹿なことを考えてしまうくらいに、わたしの脳は冥さんの一挙手一投足に支配されていく。
 ビニールの袋から取り出したつやつやとひかるりんごは、冥さんの唇の色みたいだなと思った。
「薬は飲んだ?」
 ベッドに寝転んだまま首をふった。風邪薬は飲んでないし、飲まない。
「どうして?」
「……にがくて」
「こどもだね、名前は」
 冥さんの手の中で、りんごは赤から白にするすると色を変えていく。
 わたし、今、死にたい。そして、冥さんのこどもに生まれ変わりたい。冥さんのこどもに生まれ変わって、お金以外のものに執着がないあなたの愛情を一身に受けたい。その腕の中で眠りにつきたい。あなたの食べたもので作られたわたしになりたい。毎日おやすみとおはようをその豊かなくちびるで告げてほしい。またわたしのためだけに、りんごを剥いてほしい。


20211029
ここで終わりたいです