※本誌ネタバレ
一九〇センチもあった大きな身体は、今やわたしの両手に収まるくらいの大きさになって、わたしの部屋にいる。封印された悟はわたしの部屋から動かなかった。
わたしの部屋には海の色をしたものが増えた。海の色をした文房具、海の色をしたカーテン、海の色をしたベッドリネン、パソコンの色も、スマートフォンのケースも、全部ぜんぶ。どこか知らない国の澄んだ海のような色で、わたしの部屋を埋め尽くしていく。
封印された立方体には目がついていて、たまに閉じたり開いたりしている。わたしのこの部屋をどう思うだろうか、見えていたら教えて、と話しかける。この中には二十九歳のままの彼がいる。時間は止まっているらしい。わたしにはそれがひどく不可思議に思える。今だって、瞬きをしたのになあ。
悟のために書き始めた日記は、もう半分を超えた。マリンブルーの日記帳に、同じ色のボールペンで、わたしは文字を紡いでいく。
"今日は硝子ちゃんがわたしの部屋に遊びに来ました。水色ばかりだなあ、と言われたので、海の色だよと訂正をしました。これは掬ってはこぼれ落ちてしまうような海の色です。白が似合う海の色です。ゆらゆらと揺れる海の色です。太陽が似合う、海の色です。硝子ちゃんはわたしの淹れたコーヒーを飲みながら、今五条が瞬きをした、と言いました。そうなの、悟、あなたはたまに瞬きをして、わたしを喜ばせるのです。"
わたしが話したことがぜんぶ悟に聞こえていたらどうしよう。それは少し恥ずかしいな。わたしは毎晩その日あったことを、悟に聞いてもらいながら日記を書いている。最後に必ず、悟、だいすきだよ。そう告げている。この箱の中で、悟はなにを考えているんだろう。わたしの部屋から動こうとしない悟は、誰にも壊されない。どんな呪いも祈りも届かない。わたしに話かけてくれないことは悲しいけれど、悟は生きている。ほら、今だって、目を開いて、閉じた。そう、一日に何回か、ほんの一瞬だけ、わたしは一番会いたい海の色をした瞳に出会える。
"今日は呪いを祓いました。でも、目の前で人が死にました。わたしはあなたのように強くはなれません。それでも、あなたが愛した生徒を、この世界の人々を、わたしは守りたいと思います。安心してね、なんて言えないけど、わたしはわたしなりに、頑張ります。"
"今日は野薔薇と恋愛の話をしました。わたしとあなたが会った日のことを、今でも鮮明に覚えています。でもそれは、野薔薇に話すと笑われそうだったので、内緒、と言っておきました。あなたは覚えていますか。その箱の中で、わたしのことを少しでも考えてくれていますか。あなたと出会った日から今日までのことを忘れないように、毎日思い出しています。"
"悠仁と恵が、ここ先生が好きだったパンケーキ屋さんだよと任務の帰りに教えてくれました。わたしは甘いものが苦手だから、一人でそんなところまで行ってたことを、知りませんでした。今わたしの冷蔵庫の中には、いつ悟が帰ってきてもいいように、コーラが入っています。コーヒー用の砂糖も、たくさん置いてあります。"
"そろそろ、もう会えないのかな、と思い始めています。あなたのことを忘れないように、こうして話かけているけれど、もうわたしはあなたの髪の感触も、思い出せなくなってきています。あんなにたくさん触れたのに。わたしはそれがひどく悲しいです。悟、だいすきだよ。はやくその箱から出ておいで。はやく出てきてくれないと、あなたの顔も、忘れてしまいそうです。"
日記帳がそろそろ一冊終わるころ、突然その日はやってきた。驚くほど呆気なく悟の封印は終わった。
おはよう、悟、いい夢は見れた?
好きな女が、僕の顔忘れそうって言ってたから、出てきたよ。
わたしはようやく悟の頬に触れる。ひやりとしていて気持ちがいい。わたしが言ったことは、聞こえていたのか。どんな呪いも届かなかった悟にわたしの言葉が届いていたのなら、それはとても嬉しい。
ずっとわたしたち、近くにいたんだよ。わたしの部屋から悟が動こうとしなかったから。わたしの部屋は、一番大好きな色で埋め尽くしたの。
水色好きだったっけ?と聞かれたので、わたしは訂正をする。これは、悟の瞳の色だよ。久しぶりに触れた悟の髪の毛は想像よりもずっと、ずっとやわらかい。
20200203
すべててのひらのなか