太陽が冬を殺して春が来た。わたしにとっては十五回目の春だった。春が来るたびわたしは美しいもの、怖いもの、愚かなもの、醜いもの、素晴らしいものを心に重ねていく。
「…虎杖?」
「わ、名字、なんで東京いんの」
「ライブに来たの、さっき終わって」
「なるほど、超偶然だね」
わたしはかつての同級生、虎杖を見つけて、思わず歩いている彼を追いかけて声をかけてしまった。虎杖、いたどり ゆうじ。虎杖はわたしが通っている杉沢第三高校で二ヶ月間だけ一緒に過ごした。彼のお爺さんが亡くなって、すぐに転校した。携帯も変えたみたいで、連絡が取れないと男友達は嘆いていた。それから一年近くが経つ。まあ、わたしは何年経っても虎杖のことは忘れることはないだろうな。
ー虎杖の背中には羽が生えてるみたい。
あれは入学式の次の日のこと。慣れない電車通学でうっかり乗り過ごしてしまい、最寄駅から急いで学校まで向かっている時。ようやく学校の敷地が見えたところで、反対から走ってきた男子生徒が、飛んだ。これは比喩ではなく、本当に飛んだのだ。軽々と塀を飛び越えていった。わたしは驚いて、思わず足を止めた。もっと驚いたのは、教室に入ったら、彼がいたことだ。狐か、狸に化かされたような気持ちになる。近くに座っていた彼に声をかけた。
「ねえ、名前なんていうの」
「虎杖だけど」
「いたどり?」
「そう、珍しいでしょ」
「虎杖の背中には羽が生えてるみたいだね」
「…はじめて言われた」
「わたしも初めて言った」
それからわたしと虎杖は、たまに話すようになった。あの日の朝見た通りに彼は身体が自由自在に動くようだった。運動神経が良いとか、そんな次元じゃない。やっぱり背中に羽が生えているみたいに、どんな壁もひょいと越えていく。わたしは運動が決して得意ではないので彼に憧れていた。春に出会った、美しいひと。
「虎杖は部活なんだっけ」
「オカ研だよ」
「運動部じゃないんだ」
「あー、うん、はやく帰れるし、先輩は優しいしね」
深く聞かなかったが、その時の虎杖のなんとなく気まずそうな顔をわたしは今も覚えてる。その話を聞いた翌週、虎杖のお爺さんは亡くなったと聞いた。オカ研の先輩ふたりの入院と、虎杖の転校が重なって、一時期学校内では噂になった。しかし人の噂も四十九日、いつしかオカ研の先輩たちも学校に通いだし、虎杖の話を聞かなくなった。もう去年の六月の話だ。
時間、大丈夫?もしよかったらそこらへんでご飯食べようよ。
わたしは首を縦に振り、肯定する。わたしたちはすぐ近くにあったファミレスに入る。
「名字なに食べる?」
「オムライス!」
「んー俺はカレーにしようかな」
虎杖、東京には慣れた?それ制服?どこらへんに学校あるの?理系?文系?わたしは虎杖に矢継ぎ早に質問をする。そのひとつひとつに丁寧に答えてくれる。ご飯を食べながら、時計を気にしながら。
佐々木先輩と井口先輩は、元気?虎杖はようやくわたしに質問をした。
ふたりとも、元気だよ。オカ研は廃部になっちゃったけどね。人数が足りなくて。たまに廊下ですれ違う先輩たちは、いつも笑ってるよ。
それを告げたら虎杖は心底ほっとしたような顔をして、良かった、と言った。
「あ、そろそろ帰らないと」
「もうそんな時間か」
「久しぶりに会えて楽しかったよ」
わたしたちは席を立って、春のにおいがする街に放り出される。夜になると、まだ少し寒い。
「名字、元気でな」
虎杖は手を振ってわたしを近くの駅まで送ってくれた。わたしは振り返らずに真っ直ぐ電車に乗りこむ。虎杖、ばいばい。手を振ってばいばいというのが、また明日という意味じゃないなんて、やっぱり悲しい。
わたしは春の虎杖しか知らない。記憶の中の虎杖はずっと春の中にいる。夏が始まる前に彼はいなくなって、次の春にもう一度出逢った。今彼の隣にはどんな人がいて、どんな夏と秋と冬を過ごしてきて、これからどんな夏と秋と冬を過ごすのだろう。
交換した連絡先を見つめるけれど、きっともう二度と会うことがない。もし次に会うことがあるとすれば、春以外の季節だといい。
帰りの電車に乗りこんだ。予定よりも遅くなったので、お母さんに怒られちゃうなあ、でも今日はそれくらい甘んじて受け入れよう。
春が来るたびにわたしは心の中に美しいものを重ねていく。今日、虎杖がわたしにくれた元気でな、という言葉をわたしの心に刻み込む。
20200208
春の檻