恋に甘いという概念があるのはなんでだろう。恋には形も色もなくて、もちろん味だってないはずなのに、甘い恋という概念だけが存在している。切ない恋とか、悲しい恋とかなら、わかるんだけど。
野薔薇にその話をしたら、名前さんって本当に情緒がない、と怒られてしまった。
「これでも読んで勉強してください」
「少女漫画?」
「そうです」
「野薔薇、少女漫画読むの…」
「名前さん一回も読んだことないんですか?」
「ない、ジャンプの漫画しか読んだことないかも、お兄ちゃんしかいないし」
野薔薇はわざとらしいため息をついて、これとこれとこれを読んで勉強してください、とわたしに紙袋いっぱいの少女漫画を貸してくれた。野薔薇、少女漫画が好きなんて、案外ロマンチストなのね。可愛いなあ。
わたしは少女漫画が詰まった紙袋を持って恵の部屋まで歩いていく。この時間なら、きっと恵は部屋でミステリ小説でも読んでいる時間だろう。わたしはその隣で報告書を書いたり、漫画を読んだり、たまには料理をして一緒に食べたり、だいたい夜は一緒に過ごしている。いつだかもらった合鍵を使って部屋に入る。珍しく恵はベッドで寝ていた。近くにあったブランケットを恵にかけて、ベッドを背もたれにしてぺたりと座り込む。そして、貸してもらった少女漫画を読み始める。
少女漫画の主人公は当たり前だけど女の子で、どこにでもいる普通の女の子、らしい。普通の女の子というわりには、眼鏡をはずしたら可愛くなるし、性格がめちゃくちゃいい。そして、学校で一番かっこいい男の子と恋に落ちる。わたしも、普通の高校に通って、普通の女子高生だったら、こんな風に恋をしていたんだろうか。いや、ないな。
なるほどなるほど。これが甘い恋ってやつね、甘いセリフってやつね。なるほど、これが壁ドンね。なるほど。確かに、少女漫画の中の恋は、甘いって言葉が適切なのかもしれないな。自然に心がそわそわして、にやけてしまう。
「…名前さん」
「え、恵起きてたの、いつから」
「ちょっと前から」
恵の目線はばっちりわたしが読んでいた少女漫画に向いている。少女漫画を読んで、にやにやしているところを見られたと思うと、居た堪れない!恥ずかしくなって必死に言い訳をする。
これは野薔薇が貸してくれたやつでね、わたしが買ったやつじゃないの。
恵はわたしの言葉を聞いたのか聞いていないのか、何も言わないからわからなかった。ゆっくり起き上がり、わたしの隣に座り込む。
「名前さんも、そういうの好きなんですか」
「え?そういうのって?…あ」
開いたままの漫画は今恵の手のひらの中にある。それを珍しいものでも見るかのように、まじまじと眺めている。
「"お前、俺のものになれ"」
「やめて…読まないで…朗読しないで…!」
無駄にいい声でわたしが読んでいた少女漫画を読み始めた。完全にからかってる。無表情だけど、わたしにはわかる。これはからかっているときの恵だ。眉の一つも動かさずに、しばらく朗読し続ける。耳を塞ぎたい気分だ。
「ねえ、いじめないでよ…」
「"名前"」
「なに、これ、壁ドン?」
「…空気読んで黙っといてくださいよ」
視線が絡まる。わたしはベッドの側面を背にしていて、両頬のすぐ横には恵の腕があって、それで、恵の顔が近づいてくる。
壁ドンされて、無言で見つめあって、そのあとの漫画の展開をわたしは知らなかった。
「…っ」
「顔、真っ赤ですよ」
「そこで、話さないで、顔近い」
「…名前さん」
「もう無理、わたし、帰る」
いまさら、キスくらいで、こんな照れることないのに。キスくらいなんてことないはずなのに。立に上がって帰ろうとしたけど、恵はどいてくれない。
「このまま帰れると思ってます?」
現実の世界に甘い恋なんて、ない。だってさっき口付けた恵の唇はコーヒーの味がして苦かった。今だってこんなに心臓が痛い。どくどく、というよりはばくばく心臓が動いてドラムをかき鳴らしてるような、小さな獣が暴れ回るような、例えるなら、そんな。これが甘いだなんて、とんでもない!わたしの恋、ちょっとスパイスが効きすぎてない?もうしばらく少女漫画を見るだけで、今日のことを思い出しそうだ。心臓に悪い。しばらく読めそうにないけれど、そのあとの漫画の展開は、ハッピーエンドじゃないとわたしが困る。
恵の前では先輩の威厳なんて微塵もなくなってしまうな。ひとつ歳下の恋人は、なんてことなさそうに不敵に笑って、かえしませんからね、と耳元で囁いた。
20200226
トロイメライ
たいへん素敵なリクエストをありがとうございました!