さよならだけが人生だというのなら、恋なんて、愛なんて意味ないのかもしれないな。暮れゆく空の色だって、宇宙を巡る星だって。そんなことを考えながらスーパーでお酒を買い込んで、自転車に乗って家まで帰る道の途中で桜の蕾が膨らんでいることを知った。あと二、三日で花が開いて、一週間後くらいにはきっと見頃になる。春は出会いの前に別れがくる。そして、出会った人ともいつかは別れる。わたしにとっての春は、どこか切ない香りがする。歓酒の最後の一節を、さよならだけが人生だ、と訳した井伏鱒二はどんな人生を送ったのだろうか。まあ、知る術もないけれど。
悟に桜でも見に行こうと言う前に、悟の方から近所の桜見に行かない?と連絡が来た。ふたつ返事で行きたいと伝える。わたし、桜を見ながらお酒を飲まないと春が終わらないの、と送ると酒はほどほどにしてほしいと返信が来た。ほどほどね、大丈夫。買い込んだお酒をだらだら飲みながら悟に返事をする。
桜が咲いたと言ってもまだ寒い。薄いベージュのトレンチコートをを纏い、ほんの少しだけ明るい色のリップをつけて待ち合わせの場所まで向かう。どうせお酒を飲んでいたら口紅なんてすぐにとれてしまうけれど、こういうのは心構えが大切なのだと思っている。ほんの少しのこと。せめて久しぶりに恋人に会う前は、ほんの少しいつもと違う自分でいたい。
わたしはお酒を片手に、悟は棒がついた飴を舐めながら川沿いの桜を見て歩く。いつもはそこまで人がいないのに、この時期は特別だ。ライトアップされているわけではなく、電灯とビルの明かりだけが桜を照らしている。いわゆる桜並木を歩いて、人が少ないところで桜の写真をとる。江戸川駅から面影橋までの二十分間、ふたりで綺麗だといいながら上を向いて歩いた。
「桜並木に面影橋だなんて、ちょっと寂しい」
「そう?名前、桜好きじゃなかったっけ」
「桜見ながら飲むお酒が美味しいから好きだよ」
「夏の酒はまずいわけ」
「…いや、美味しいわ、特にビールと日本酒」
「なにそれ」
「春は別れの季節だからね」
「いつになく情緒的じゃん」
お酒がなくなった、と言ってコンビニについてきてもらった。わたしは迷わずストロングとパッケージに書かれた缶を手に取る。そして、思い出したように少しずつ話す。
「…生徒たちが、もう生徒じゃなくなったんだなって。会えなくなるわけじゃないけど、それでも」
わたし、ちゃんとあの子たちに何かできたのかなあ。これから一人で任務に行って、後輩の指導とかするようになるのかなあ。これじゃまるで子離れできない親みたいだ。
可愛い生徒たち。新しい生徒に出会う前に、わたしは彼らと過ごした四年間にさよならをした。
さよならは、寂しいね。さよならだけが人生か。そうかもしれないね。いつもじゃ言えないような台詞を西早稲田の人があまりいないコンビニでぽつりぽつりと落としていく。飲み物が入ったショーケースを見つめたわたしの唇は、もうあまり綺麗な色ではなかった。
「名前はいろいろ考えすぎだって。あいつらなら大丈夫だよ、強くなったから」
「わかってるんだけど、さよならがやっぱり寂しくて」
「…さよならの言い方なんて、僕が忘れさせてあげるよ」
そういう台詞は、折角なら桜の下で言えばいいのに。悟が言ったら、それはたいそう絵になるだろう。深夜のコンビニの、しかも度数が強いアルコールを買う前に言われるなんて、格好がつかないじゃない、悟らしくない。悟はさっき見た桜に酔っちゃったかもね、なんてへらへら笑っている。わたしはお酒に酔ってしまったのか、花の嵐に酔ってしまったのか、悟に酔ってしまったのか、わからない。いろいろ考えてるのは、わたしなんかよりも、あんたの方でしょ。今日だってきっと忙しかったんでしょ。それでもいつかわたしが桜が好きだと言ったことを覚えてくれていたんでしょ。
手を引かれて、差し出すと、気づけば指輪がきらきらと光っていた。
確かに、これなら悟にさよならなんて言わなくて済むな、とはめられた指輪を見てぼんやりと思った。悟の髪と同じ色をした指輪はわたしの左手の薬指にぴったりで、わたしの肌に溶け込んだ。心臓から吹きこぼれてしまいそうな喜びが全身を包む。悟は相変わらず笑っていたので、わたしもつられて笑った。明日になったら今日のこと忘れたとか言わないでよ、と少しだけ不安そうな顔をする悟は、とても可愛い。散らばる桜の花びらと面影橋、薄い月あかり、深夜のコンビニのぬるい蛍光灯、きついアルコールのにおいがするさくらんぼ味のお酒、あなたの真っ白に光る言葉、ここに捨て置くさよならの言い方。歓びが遠くなった時は、何回だって思い出して、何回だってわたしの人生に意味をもたらす。絶対に忘れないよ。わたしは帰り道なんども悟にそう言った。
20200307
運命はここに眠る
"さよならだけが人生だ" 井伏鱒二
"さよならだけが人生ならば、人生なんていりません" 寺山修司