遥かなる夕景

※夏油さんが煙草を吸います、解釈違いに注意してください



「夏油様、そんなの吸ってたら早死にしますよ」
「名前、煙草詳しいね」
「おじいちゃんが吸ってたんです、同じやつ」
「はは」

 夏油様はときどき思い出したように煙草を吸う。そのたびにわたしは夏油様の半分すらわからないのだと悲しくなる。なんでそんな、古い煙草を吸うんですか。あなたの年齢なら、もっと、おしゃれな銘柄とか、いろいろあるでしょう。夏油様は、袈裟に似合う煙草なんてこれくらいしかないよ、と言って笑った。そもそも袈裟に似合う煙草なんてないんじゃないですか。あなたの倫理観はそこにあるんですか。やっぱり夏油様のことを、わたしは半分どころか、四分の一もわからないのかもしれないな。

「おじいちゃんはおばあちゃんよりもはやく死にました、煙草が原因かはわかんないですけど」
「女性の方が強いんだよ。生命としてね。名前は、私に生きててほしいかい?」
「絶対、わたしよりは長生きして欲しいです。夏油様がいない世界に生きていたくないので」
「それは嬉しいね」

 夏油様は相変わらず煙草の煙を燻らせてはわたしに笑いかける。その質問の答えに、イエス以外があると思っていないくせに。
 それ、蜂蜜の味がするんですか。おじいちゃんが言ってました。蜂蜜の味がするなら、わたしも吸ってみようかなあ。そう呟くと、蜂蜜みたいに甘いけど、初めての煙草にはおすすめしない、と釘を刺された。夏油様がそう言うなら、そうなんだろうな。空のこと、人間のこと、世界のこと、呪いのこと、夏油様はそのどれもにわたしよりも詳しい。もちろん煙草だって。
 夏油様は神社の境内で火種を踏みつぶした。まったく、罰当たりな、と思ったが、わたしの神様は夏油様だった。行こうか、という夏油様の言葉に従ってわたしは紫とも橙色とも表しがたい、混沌とした夕闇の中を歩き出す。

「同級生が煙草を吸っていたんだ」

 白いベッドリネンに包まれながら、夏油様はそう言った。わたしに背を向けて煙草に火をつけた。なんだかそれが悔しくて、わたしは夏油様の髪の毛に触れる。何かの願掛けのように伸ばした髪の毛の色は、艶のある黒。髪の色と対照的な白い煙が部屋の中に渦を巻く。

「同級生って、女の子ですか?男の子ですか?」
「女だよ」
「ふーん」
「嫉妬してる?」
「…そうですね」

 夏油様が煙草のせいで早死にしたら、どうしてくれるんだ。わたしは名前も顔も知らない女のことを少しだけ呪う。もう随分と昔の話だよ、十年も前の話だから、と言ってわたしを宥めたけれど、わたしの気は晴れない。あなたは、十分くらいしたら、ガラスの灰皿に火種をぎゅっと押しつける、その指先をわたしは見ていた。でもきっと、その女は夏油様の寝癖の角度を知らないんだわ。あと、たとえば随分と歳の離れた女の子にどのように接するかとか、絶対に知らないんだわ。わたしは菜々子と美々子の可愛いかわいい顔を撫であげる夏油様の笑顔を思い出した。
 名前も顔も知らない女に、勝手に嫉妬して、勝手に勝ったような気になる。それでもまだ気が治らない。
 わたしも何か夏油様に影響を与えられたことがあれば、ちょっとは気が晴れるかしら。

「夏油様、わたしと一緒にいて、変わったことはありますか」
「甘いものを食べるようになったかな」
「それは、前に、あなたの親友の影響と聞きましたよ」
「よく覚えてるね」
「浮気した男に問い詰めている気分です」
「名前と一緒にいると、冗談を言うことが増えたかな」
「…よく笑うようになったということで、よしとします」

 なんて可愛らしくて、平気で嘘をつく神様なんだろうか。
 夏油様、何が本当で、何が嘘なんですか。わたしはやっぱり夏油様のことがちっともわかってないような気がしてきて、気が晴れるどころか落ち込んでしまった。好きな人のことをわかりたい、それだけなのに、難しい。愛していると言うのも言われるのも難しくないのに、わかりあうことは難しい。

「夏油様、やっぱりわたしにも吸わせてください」
「…いいけど、重いよ、これ」
「大丈夫です、夏油様のことずっと見てたから、わかります」

 小さな紙の箱からキャメルのフィルターが付いた煙草を一本取り出しわたしにライターとともに渡してくれた。見よう見真似で火をつけて、息を吸い込む。そしたら、けほ、と咳き込んでしまった。まったく蜂蜜の味なんて、しないじゃない。嘘つき。夏油様の言うことを聞かなかった罰があたったのだ。
 だから言ったじゃないか。夏油様は少しだけ心配そうな顔をする。
 心配させてしまってごめんなさい。でも、わたし、なんとなくだけど、夏油様がこの古い銘柄の煙草を吸う理由がわかったような気がします。
 きっと、夏油様の見つめる先にはいつだって美しい世界が広がっている。少しだけど、あなたが希望という名前の煙草を持つ、指先ほどのことだけれど、夏油様のことがわかったような気がする。花曇りのような紫煙の向こう側にある世界の、美しい夕暮れについて考えている。きっと白く曇りゆく部屋の中で、夏油様とわたしは同じ空の色のことを考えている。


20200313
遥かなる夕景