ポラリスの喪失

 賢者の石ラスト前夜のお話

 きれいな黒髪だと言われた。
 あらゆる生き物が眠りにつき、星だけが囁き合う広い夜空のように。希望を手にした船乗りが、思わず見惚れ手をとめてしまうほどの耀きに照らされる海のように。
 毛玉ひとつない卸したてであろうセーターの裾をいやに気にしながら、教授は呼吸一つすら鼓膜を揺さぶる静けさの中でそういった。
 あぁ、このひとは存外ロマンチストなんだな。そんな胸中の声すら聞こえてしまったのか、教授はひどく恥ずかしそうに俯いてしまう。
「……慣れないことは、い、いうものではないようだ」
「そんなこと……多少驚きはしましたけど、嬉しいです。まさか先生からそんな風に言っていただけるだなんて」
 余程性に合わなかったと思ったらしい、いよいよ視線が合わなくなった瞳は僅かに潤みだす。なるほど人を褒めるということはあまり得意ではないようだ。
 このクィレルという男は見た目や口調からも分かる通り真面目で用心深く神経質な反面、直情型で己のことには大雑把な上、世間とは些かズレた感性を持っている。逢瀬にはもってこいだが季節を考えればやや不適切であろう場所を選んだことへの配慮だろう、屋上にくるや否や渡されたブランケットは体温を存外に温めてくれているものの、流行りに目ざとい少女との睦み合いにおいて片田舎で編み物を趣味とする祖母の家で見かけるような柄はややミスマッチであったし、翌日を考慮して週末に声をかけてくる心遣いは非常にいじらしいが、目の下にとっぷりとできたクマはそのためにレポートやテストの採点で睡眠時間を削ったであろうことを如実に示していた。それでもこうしてチラチラと向けられる視線には、どうしたって無碍にはできないひたむきさがある。
 友人たちは煙たがったが、私はこの紫色のターバンをした珍妙な装いの男がどうしても嫌いになれなかった。
「日本人って、だいたいみんな黒髪なんですよ。だから、当たり前のコレを褒められるなんて初めてで」
 毛先を摘んで見つめるも、この男が評するほどの美しさがあるようには思えない。クィディッチの試合でみたスリザリンのチェイサーであるオリビアは観客席からでも見惚れるほどのきれいなブロンドをしているし、六年生のイザベラは同じブルネットだがあちらは豊かなウェーブで同年代の中でも色気と艶を湛えている。私のこれは、ただツルツルと滑るだけの、結わえることすら出来ないつまらない髪だ。
 そも、私自身それほど褒めるようなものは持ってやしないのだ。子どもばかりのこの空間でそれに触れる機会がどれだけ多いだろう。親たちの愛情と偏見の心を一身に受け継いだ彼らは、同時にそれが悪意になるとも知らずに世間話のような気軽さで放ってしまうのだ。
 『君は日本人なのに、よく口が回るんだな』
 『貴女の事てっきり中国人かと。みんなつり目だから、よくわからないのよね』
 全てがそうではないことも勿論だが、無意識の上で彼らは異端を許さない。それらの言葉はそうして私の内側を静かに確実に、黒く燃やしていった。おかしな話だと思う。彼らはそれが想像の外にあるものだから気付いていないのだ。血筋に触れることとなると過敏な彼らは、自分自身が握りしめたナイフを振りかざしていることに気づいていない。持ち手にすら刀身がついたそれを気付くことは、多分きっとこの先もないのだろうけど。
「そ、んな風にいうものではありませんよ。貴女の生まれも、環境も、それを巡る周囲の言葉も些末ごと。ただ、貴女を形容するそれらは美しいと……そうお伝えしたかったんです」
 彼は普段あまり多弁なほうではない。これは彼と過ごしてきた数年間から言えることだが、先生は基本的に慰めたりだとか優しく声をかけたりだとかが得意ではない。まだこの校舎に足を踏み入れて間もない頃……幼かった私は、ひどく傷付いていて、生まれのせいで周囲からあまり心地のいい扱いはうけておらず、ひとり廊下を彷徨っていた。その様はまるで星を見失い迷子になった子どものようだと、もうすこしあとになって彼にいわれたのだが、兎に角その時の私はどこへ向かえばいいのか、どうすればいいのか、何が正しいのかすらも分からなくなっていた。竦んだ脚を動かすことすらままならない私の手を優しく取ると、私室の暖炉で暖め、今日のようにセンスがいいとはいえない柄のブランケットを寄越してただ手を取り話を聞くに徹していた。言葉はなくともその所作が、こちらを見つめる瞳が優しくて、それからというもの何かあるたび私は彼を呼びつけ、困ったように微笑む彼に相談を聞いて貰う。それがいつもの私と先生の当たり前だった。
 突然修行をするという言葉には驚かされたもので、戻ってからの変わりぶりには閉口しかけたこともあったが、それでも彼の根底は変わってやしない。すれ違えばそっと細まる視線も、たどたどしく放つ言葉も、夜空を見上げればそこに星があるように、私にとっては当たり前のことだった。決して変わりはしないのだ。
 それだけに、いつもならそう聞けやしない言葉の羅列の数々に顎を引いてしまう。それら、と全身を指す彼の瞳は、いつの間にやら真っ直ぐこちらを映している。
「私には、貴女が貴女であることこそが愛おしい」
 クィディッチを楽しむような趣味も花や青空を美しいと評する感性もないため故郷に行けば白いといわれる肌だって、暗闇を僅かに見渡しやすいというだけの色のない瞳だって、何を取っても同寮の誰よりも魅力なんてありはしない。
 だというのにこの男は、それを美しいのだと言う。良くないことだ。分かっていながら否定もできず、そうしてそれを真に受けてしまう自分がいる。
「どうしたんですか、今日はやけに多弁ですね」
「……気分を害させてしまったのなら、申し訳ない」
 どうにも慣れない状況に、照れ臭くなってからかうように言ってやる。そうすれば彼は心底恥ずかしいと言わんばかりの顔で黙り込むのだ。いつもは、そうだ。
 なのに、今日は珍しく返事をする。そういえば、ここにいることすら珍しい話だ。普段は私から声をかける。こうして先生から声をかけられて集まることなんて、今まではなかった。
「あ……いえ、そ、ういうわけでは」
「ですが、今しか。今、言わないと……きっと後悔してしまう、から」
 かぶせるように放たれた言葉は、聞き逃すにはあまりに大きすぎた。今しかないとは。後悔とは。聞くに耐えない言葉の羅列だ。まるでもう二度と会えないみたいじゃあないか。
「……どういうことですか」
「……明日、ホグワーツを発ちます。やらねばならぬこと、がありまして。ですから、こうしてお会いすることも、気持ちをお伝えすることも……もう時間は限られていますので」
「そ、んな。あはは。やだな、先生ったら……また修行ですか?それとも旅行?どうせなら学年度が終わった後でも」
「そうではない。そうではないんです」
 今生の別れとでも言うのだろうか。色をなくした声で言う先生の瞳は星だけを写し、あたかもそのような風に聞こえさせる。いや、事実きっとそうなのだろう。都合が悪いと視線を合わさない悪い癖は、悔しいほどいつもどおり。
「名前さん。私は貴方に、正しく未来を生きて欲しい。幻の星に惑わされず、まだ光を放つ未来の導べとともに歩みなさい」
 先生はきっともう、戻ってくる気はないんだ。
「例え行先が暗かろうとも、正しい道を歩むのです」
「迷った時はどうするんです」
「ならば空を見上げて御覧なさい」
 いつもなら、いつもなら。思いもしない言葉の羅列は、わたしにはあまりにも優しくない。辛く苛烈な音たちは、静かな星の海には不似合いなほどによく響いた。
 せめて一目。大好きなヘーゼルを写したいと願うのに、それでも視線は交わらない。
「……星がなければ、夜空と暗闇に区別なんてつきません」
「一つへったくらいでは、誰も気付きはしませんよ」
「で、も、それでも」
「名前さん。紛い物に縋っていてはなりませんよ。私は、貴方の星になどなれやしない」
 どうしてこんな時ばかり、流暢に喋るのかなぁ。
 口内は乾燥し、思うように言葉が出てくれない。思考が整理できない。彼の顔が、よく見えない。いつの間にやら立ち上がっていた先生が、暗く影を作りこちらの視界を阻む。辛うじて見える口元は、柔らかな弧を描いている。
 頬を包みこんでくる掌はやはり暖かく、優しいから。近づいたことでようやく見えた表情。満点の星空の下で、彼は酷く綺麗な笑顔を浮かべた。それがどうしてか泣いているように見え、潤んだ瞳が悲しくて、どうにかしてあげたいのに、そう思う私の意思に反して視界は暗く蕩けていく。
「お達者で」
 混濁する意識の中。夜空を反射してキラキラと光る先生の瞳は、紛れもなく星のそれだった。
  
 ホグワーツでは祝杯が挙げられた。グリフィンドールの一年生を英雄と讃える声が塔の上からでもよく聞こえる。窓という窓から漏れた光が湖畔をはじめ周囲の景色を煌々と照らしている。
 屋上から眺めるそれらは酷く輝き、痛いほどに目を焦がす。喜びの象徴たる歓声も何もかもが、空を霞ませ静謐を切り裂き、いまの私には邪魔でしかない。ただ一人を想うことすら、今日という日は許してくれはしないらしい。ひどい話だ。
 
 ……本当にひどい話だ。そして、ひどい男だと思う。己を慕う生徒をたしなめもせずに甘やかし、年端もいかない子どもが抱くには些か不相応な比重のそれを抱えてくれもしなければ拒否すらせず、そうして期待させ心を奪ったうえで何も言わずに消えるのだから。
 かつて旅人は夜空に輝く満天からひとつの星をたどっていったという。集合体が作る輝きに魅せられながらも、その、たった一つの星だけを。星自身にはそんなことどうだっていいのかもしれない。それでも。
 私にとって、教授は紛れなく、夜の帳に輝く光の標べだったのに。
「今日は空が暗いのね」
 あんなに見たはずの溶けるような微笑みのきらめきも、真綿のように柔らかで優しい光も。星はもう応えてはくれない。