灰色の空

 学年末最後のマグル学は恙無く、まるで何事も無く終わった。
 今年の寮対抗の砂時計は緑に光る宝石がたっぷり詰まっており、誰が言うまでもなく優勝はかの寮で決まっていた。沸き立つ生徒への校長の賛辞、卒業生への月並みな言葉、例年通り行われる見飽きた光景。それらをどこか他人事のように見てしまっているのは、きっとここではないどこかを見つめる先生の表情に目を奪われてしまっていたからなんだろう。

 ──私はこれから修行でしばらくマグル学の席を空けます、来年以降も皆さん頑張ってください。

 そう言った先生の声を聴いたのは私以外に何人いただろうか。皆が皆家族に会える喜びで浮き足立って聴いちゃいなかったが、私にとってそれはどうしたって聴き逃せる内容ではなかった。
 ルームメイトが帰宅準備を整えているのを放って、切れる息を整えることも忘れ向かったのはマグル学の準備室。
私が来るのはお見通しとばかりに開かれた扉の先では、先生がまさにトランクを閉じ終えたところだった。
「行ってしまうんですね」
「もう決まったことだ」
「せめてあと2年、いえ、1年遅くは出来ないんですか」
「これでも充分遅らせた。むしろ、もう2年早く行くべきだったよ」
 クィレル先生は生徒からパッとしない教授だと言われている。授業内容もつまらなく、喋る内容もおとなしい。分かりやすく掻い摘んではいるものの、それが興味を掻き立てる内容とは言い難い。それが周囲から聴いた彼への主な印象だった。
 それでも、私にとってはそうではなかった。
「先生は、充分にお強いですよ。それ以上何を求めていらっしゃるのか、私にはわかりません」
「分かってもらおうとは思っていないし、ミス・苗字…君がそれを理解する必要もない」
「……」
 先生は意外と頑固である。焦るとたまに吃ってしまうという癖のせいで御し易いと思われがちだが、あれでいて案外意志が強かったりする。
 冬の雨の日のことだ。スネイプ先生に頼まれた薬品棚の在庫確認を終えた後、私はその日提出予定のマグル学の課題があるのをすっかり忘れていて。夕食も抜いて必死で書き殴り、完成したのはもうすっかり朝方だった。
 先生の授業では課題はその日中に先生自身に提出すること、でなければ受け取ったものとしてみなさないというルールがあったので、提出はもはや絶望的で。点数は付かなくともせめてレポートだけは読んでくれとヤケクソでマグル学の教室に向かうとそこには目の下にどっぷりクマをつけ震えて突っ立っている先生が。普段ならいの一番に課題提出に来るはずの私がなかなか来ないことを疑問に思ったらしい。曰く、「寝ない限りはその日中ですからね…」だそうな。どうやら一晩中寝ずに冷え切った教室の中で待ってくれていたんだとか。
 結局課題は提出できたものの、教室で待ちぼうけた先生も徹夜で課題をした私も揃って風邪をひきマダムポンフリーにしこたま怒られるという酷い始末だったが、それでも先生は期限内に課題を受け取ったとして処理してくれていたらしい。
 あの日青ざめながらも薄く浮かべた笑みはここにはなく、先生はただトランクに腰を下ろし自分の靴の先を眺めていた。授業中目が会うたびに眦を赤く染めていたあの顔も、放課後質問に行くたびこっそりお菓子を持たせてくれた時の悪戯っ子のようなあの顔も、期末テストで満点を報告しに行った時の綻ぶような笑顔も…いつも合わせてくれる視線が、交わってくれない。
「…お戻りはいつになるんですか」
「きっと君の方が早くここを出る」
「もう、会えないんですか」
「…早く行きなさい、列車を待たせてはいけない」
「私も…私も一緒に、」
 先生の手が上がる。静止するようなそれは、言葉の続きさえ言わせてくれない。言いかけた一言は、放たれないまま霧散した。
 先生はトランクから降り、退室を促す。鼻の奥がツンとするのを無視して、教室を出る。間際に振り返ると先生はじっとこちらを見つめていて、窓からの逆光で表情は見えない。
「…風邪、引かないでくださいね。先生、体強くないんだから」
 強がって揶揄うような言葉に先生は無言で応える。なんとなく、笑っているように感じた。

 ホグワーツ特急のコンパートメントから見える城はいつもと変わらず白さをたたえている。曇り空のせいで、景色はくすんで色をなくしていた。
友人たちが長期休みの予定を立てている中、一人がそういえばと声を上げた。
「クィレル、修行っていってたけど来年のマグル学誰になるんだろうね」
「誰でもいいよ、授業つまんないし」
「それ言えば闇の魔術に対する防衛術の方が気になる。来年度もどうせ1年しかもたないだろうけど」
「名前は?あんたマグル学好きだったじゃん、なんか知らないの?」
 友人の何気ない質問がひたすらに痛い。しばらく言葉を返せないでいる私に興味を失った彼女らは、すぐに話題を変えてしまう。
 車窓を流れる景色は薄暗い。窓には雨粒がしとしととついては落ちる。程なくして眠った友人達によって訪れた静かな車内。自身の独り言が、やけに響いて消えた。
「もう、戻ってこないとおもう」