変わらず 走る

毎日、休むことなく繰り返す

躱したら、打つ

躱したら、打つ!

ーーー繰り返す ーーー変わらず


幸か不幸かは別としてーーー
多くの人間には、人生が変わる機会というものがある。

ーーー朝は暗い内に走る。ここから見る景色が好きだから。

水平線の僅かに向こうが、静かに燃え始め、
漁船の灯りが蛍のように、
慶次の生まれた島を囲む。

『世界一位の男』には、あまりに地味。あまりに細やかな、


原動力



14:Ich wei*, ich bin kein Genie.



慶次は地味なボクサーだった。

ライト級で、世界を制し、その後スーパーフェザー級。
でも、世界一位まで勝ち進む業績の割りに、
ボクシングファン以外には、先ずその名を知られていない…

7歳から、毎日走っていた。友達は少なかった。最終のフェリーが四時半だったから。住んでいる島から本土の学校に通うのに、移動手段はそれだけだった。
15で本土のジムに入り、以来休まず、サボらず、迷惑かけず…勝ったり、偶に負けたりーーー

周りが『そういやコイツずっと居るなぁ』と思って慶次を振り返ると、ベルトを巻いていた。

スタイルも、教本通りのアウトボクシング。
そして、いつも判定勝ちの"金にならない(おもしろくない)王者"だった。
ーーーでも、そんなものは周りの都合であって、"慶次の様に出来るという事"が、どれだけ難しいかを同業者は知っていた。

ある日、プロモーターが『お前に身体の弱い母親でも居れば、ちったぁドラマになるのにな』と冗談を叩いた。慶次は一瞬ぎくりとしたがーーー

そんな事は、わざわざ人に言う事ではないのだ。


「母さん」

ガラガラと音を立てながら、横にスライドする形式の玄関の戸を開き、着替えくらいしか入っていないボストンバッグをその辺に放った。
玄関から入って直ぐの部屋に、慶次の母親はベッドに横になり、窓から海を眺めていた。

「オウ…慶次…、あんたねー毎週毎週帰って来ることないのよー。こんな、なンにも無い島」
「母さんが居ンじゃん」

全自動式のベッドの寝台を動かし、ベッドから降りて座椅子に座る。慶次は母親の姿を見るなり、台所に向かった。

「メシ作るよ、何が良い?」
「黒毛和牛タンとシチリア産紫芋のシェフの気紛れタリオリーニそして、」
「なめんな」

母親のボケに対して若干食い気味に突っ込みを入れ、帰宅前に購入した材料を使って調理を始めた。

「どーせアンタ、また修験者みたいな献立なんでしょ」
「母さんに合わせてんだよ」

出来上がったのは、カロリーが控えめの野菜中心の料理だった。ご飯もやや少な目である。
慶次の目指す階級から、あまりハイカロリーなものを普段口にせず節制し、身体を絞っているため、元々この手の献立を作る方が得意だった。
軽く文句を垂れつつも、母親は息子の作った料理に箸を進める。

「終フェリまだ四時半なの?」
「オウよ」
「か〜、世界チャンプが利用するってのに何つーか……あんたのカリスマ性が足んないのよ!?野獣のようなスター性よ!」
「や…野獣のようなスター性…?」

母の突然の力強い言葉に思わず顔がひきつった。

「そうよぉ〜?父さんの若い頃なんてそりゃあもうスンゴかったんだから」
「………そうなの?」
「あたしゃ噛まれただけで思わず排卵しそ」
「オイやめろマジで」

実の母親から聞く下ネタ程嫌なものはなかった。しかもかなり生々しい。

食器を片付け、自室に戻る。
部屋は殺風景だが、本棚の上に並べられたトロフィーと、部屋の壁に貼られた…"今年の目標!スーパーフェザー級チャンプ!"という貼り紙。


ーーー慶次は……、元々他人と全力で殴り合うような質ではないのかもしれない。これが慶次の、ずっと変わらない習慣だった。

だが、その実直さを武器に一歩ずつ…だが確実に進み、
二階級、そして三階級制覇という遥かな夢も、
慶次の遠くまで見える、澄んだ眼にハッキリとーーー



ーーー見えて"いた"


「…………母さん…、………オレぇ…」

ただ事では無い様子で、自室からリビングに戻ってきた慶次の顔を見て、母は驚く。
そして、続けて紡がれた言葉に、言葉を無くした。


「網膜剥離かも…」


ーーー幸か、不幸かは別として、
多くの人間には、人生が変わる機会というものがある。

"網膜剥離"とはーーー
眼球の内側にある網膜という膜が剥がれて、視力が低下する病気の事である。

網膜とは、目の中に入ってきた光を刺激として受け取り、脳への視神経に伝達する組織で、カメラでいうとフィルムの働きをしている。
網膜の剥がれは痛みを伴わないため、気付きにくく、前兆として飛蚊症があらわれることがある。また、網膜の中心部である黄斑部分まで剥がれた場合、急激に視力が低下し、失明に至る恐れもあるという。

通常の網膜剥離の手術を行い、一旦治癒したとしても、網膜の表面や裏に細胞が増殖して線維組織ができて、網膜剥離を起こす事がある。増殖性硝子体網膜症にかかると、手術を繰り返し行わなければならないことがあるらしい。

プロボクサーである慶次にとって、致命的な病気であった。



ーーーーーーーーーー…
ーーーーー…
ーーー…


「超お急ぎ便でーす」

ピンポーンと、チャイムが鳴り、家の中から人が出てくる。
玄関先には、郵便局の配達員の服装をした慶次が立っていた。

「あら慶ちゃん、いつもありがとね」
「いやいや」
「慶ちゃんはもうずっとこっちにいるがー?わたし等は助かるけど、此方には若い友達も"ぎゃるず"もいねかて。ピチピチなのは魚しかおらん」
「いーがいーが、本土は家が多くて釣りに行く暇もなさそうらけ。俺はこっちのが合ってるがーよ」

手を振り、昔から近所付き合いもある顔馴染みのお婆さんの家から離れ、次の配達先に向かう。

あれから慶次は、眼の手術と挨拶を済ませた後、
島(じもと)で違う職業に就きーーー

次に本土へ食事に出掛けたのは、一年半後の事だった…



「…お呼び立てして済みません。国連航空宇宙局です」

自分の家に届いた手紙に呼び出され、慶次は本土に渡り、自分にとっては余りに不釣り合いだ、と言わんばかりの大きなホテルの高級レストランの一角の席に座っていた。
そして、目の前に座る美女、改めミッシェル・K・デイヴスの言葉に呆気に取られている。そんな慶次に構わず、ミッシェルは話を始めた。

「要件は二つ。鬼塚慶次さん、貴方の格闘技術(ちから)が必要です」
「!?…」
「それとーーー…

貴方を、借金から救う事が出来ます」

その言葉を聞いて、一瞬眼から光を失った。
少し沈黙し、

「…全部……調べてるって感じかな…?」

と、聞き返す。ミッシェルは淡々と「はい」と肯定した。

「…地上ありとあらゆる治療法をさ…片っ端から金借りて、片っ端から試した事もーーー
自称、協会関係者に思いっ切り騙された事もか…、ハハ…アイツは今考えるとそもそも名前から偽名っぽかったわ。…調べたか」
「はい」

フゥ…と、小さく息を吐き、席から立ち上がる。

「でも……駄目っスわ。自分でも意外なんだけど……"もう無い"んだ

俺の闘う理由……、丁度先週…"無くなった"んだ」

席を立ち、レストランの出入口から慶次は出ていった。
慶次を呼び止める事なく、出ていく慶次の背を見送り、視線を慶次に出された料理へと向ける。

「………だったらーーー

デザートくらい食っていけよ…」

出されたフルコースの料理の内、慶次が手を付けたのは"サラダとスープのみ"だった。

「タクシー代も忘れて行きやがって…"何で"港まで帰る気だよ」


人間には、人生が変わる機会というものがある。

「いンじゃない?慶次……この機にマザコンも修験者もやめて、本土で嫁探しでもしなさいよ」

網膜剥離かもしれないと分かったとき、母は下手に慰めるわけでも、叱咤するわけでもなく、只そう言いながら、頭を撫でてくれただけだった。

「(思えばーーー 引退以来"此処"には来てなかった)」

レストランから出て来て、真っ直ぐ…、現役の頃から毎日、朝早くから走っていた港まで来ていた。自分の島が見えるあの港まで。

慶次の目はーーー日常生活に支障は無かった。
闘うのにさえ、問題はなかった。ただーーー、網膜剥離の手術の影響で…


遠くのものにピントが、合わなかった…



ーーーーーーーーーー…
ーーーーー…
ーーー…


「ーーー来てくれてありがとう…。気が、変わったか?」

日本、茨城県にある、U-NASA日本支局。
そこの病室の一室に、手術を着た慶次と、ミッシェルの姿があった。

「……いや、変えられなかった。一つ……条件っていうか…聞いときたい事なんだけどさ、

その…"ベースとなる生物"ってヤツはーーー選べるのかい?」

視線をミッシェルには向けず、窓から見える海の水平線の向こうをじっと見つめる。

「………いや、手術には相性がある。

一種類ずつーーーパッチテストの様に…洗剤で色落ちしないかどうか端だけ浸して試す様に…、君の細胞に合う生物を探し出してからの手術となる。

一つも合わずに帰されるヤツも、一つしか合わないヤツもいる。
だが数種類適合すればーーー無論、希望が全て通る訳ではないがーーー…その中からなら選べる」

「………じゃあ……、もし選べるなら、その中で一番ーーー」
「………パンチ力か?」

ミッシェルの質問に、少し笑い…答えた。


「目が良い生物(ヤツ)にしてくれ」



『本土から』
『母さんの眠る島が見たい』

それは、世界一の闘士には、あまりに地味な、
他人にはおよそ理解できない程細やかな、
慶次の『闘う理由』だった。

「今……、俺がお前に拳を向ける動機は二つ」

目の前に仁王立ちする、象虫型を前に、自分の拳を前に出す。

「一つは、出来たばかりの素敵な友達を護るためで、もう一つは只の…

変えられない俺のーーー



習慣(いきかた)だ」


鬼塚慶次
出身国・日本
24歳 ♂ 175cm 61kg

『マーズ・ランキング』8位
M.O.手術 "甲殻型"
ーモンハナシャコー




「覚悟しろ」


人は、虫を踏み潰したことなど気にも留めないが、
この虫は、人間に踏まれたことを気にも留めない。

強固な殻を持つ貝や蟹を補食する為、進化させた彼の戦法はーーー「叩いて」「割る」!!


火星・2m22cm
『黒硬象虫』
VS
日本国新潟県・1m75cm
『紋華青龍蝦』



1980年代ーーー
かつては、チーズの製造過程に出る廃棄物であった"ホエイ・プロテインパウダー"が普及するまで、アスリート達は栄養の摂取に多大な時間と労力をかけていた。
筋肉の増強・維持は勿論、子供の身長を伸ばす為にもそれが必要不可欠である事は言うまでもない。
ギリシア語で『プロテイオス(最も重要なもの)』、即ちーーー

『蛋白質(プロテイン)』が、運動能力を造り出す。

『筋肉ダルマは動きが鈍い』というのはイメージに過ぎない。瞬発力の増強には、筋肉の増強が不可欠であり、実際に短距離走選手の体つきが示す通りーーー

『蛋白質(プロテイン)』が、疾さを造り出す!

身体の重心を下げ、両脚に力を込めた象虫型は、慶次に向かって飛び出し、その強固かつ大きな拳を振りかぶる。
だが、その拳が慶次に当たる事は無く、無駄の無い動きで躱し、拳は地面を砕いた。


ーーー対するは、鬼塚慶次(24)
最終学歴ーーー新潟県御々附私立御々附中学校

最終成績ーーー
国語・数学・理科・社会科・共通語(英語)ーーー全て『3』
技術・家庭科 『3』
音楽・美術 『3』

体育   『3』!

…何度も何度も拳を振り下ろし、全てを紙一重で交わされた。大きく拳を振り過ぎて、ガラ空きになった肋に、慶次の拳がモロに入った。
殴られた威力で、強固な筈の象虫型の外皮にビシッと皹が入る。

ーーー人間など、叩けば一発で粉砕出来る筈のこの拳が、
鍛え上げた筋肉に、クロカタゾウムシの硬さを乗せ、ゴキブリの瞬発力で放つーーーこの拳が、当たらない!!

否ーーー 当たる訳がなかった!

『躱して』ーーー 『水月(ストマック)』!
『潜って』ーーー 『脇腹(リバー)』!

毎日、この動きばかり…、いつも、いつも…いつも練習してきたから!

ーーーシャコの持つ"驚異の視力"については、研究が進められている途中である。
シャコは、人間や昆虫以上に可視域が広く、紫外線・赤外線、果ては電波まで"見えて"いるという説がある。
恐らく、この暗い穴の底でも、今の慶次の目には、暗視スコープの様に相手の姿が映っているのであろう。

更にーーー人間の目では三色分しか無い資格が、シャコには十二色。
また、地球上の生物で、今のところシャコだけが、自然光に加え、デジタル技術などに使われる"円偏光"が何故か"見えて"おりーーー

詰まる所シャコは…、人間から見える世界に馴れてしまった我々からすると"どう説明していいか分からない程"目が良い訳ではあるがーーー
広い海の底で、何故(普通に闘っても強い筈の)シャコだけが"そう"なのか、詳しい理由は分かっていない。

「(母さんーーー)」

いつも心配していたね。ボクシングしか出来ない俺を…、同年代の友達の少ない俺を…

やるよ……きっと……
地球に帰って、母さんの島が見えたらーーー
仲間達と働いてーーー
恋人も探してーーー
きっと母さんが安心出来るような人生を……

どうして良いか分からずにここまで来たけど、ここで仲間達(かれら)が教えてくれたから。

誰かを守る為に闘うというのは、こんなにも誇らしいと!!

だからーーー 母さんーーー…


何度も躱して、打ち込み、躱して、打ち込みを繰り返し、象虫型の外皮には、大きく皹が割れていた。確実に身体の内側にダメージが蓄積されていく象虫型は、徐々に脚に力が入らなくなってきていた。
それでもまだ立ち直り、拳を握り、振りかぶる。

その刹那ーーー 慶次の視界がぼやけ、歪んだ。


「あれっ…?」



硬く、大きな象虫型の拳は、遂に慶次に直撃し、慶次の身体は吹っ飛び、壁に激突した。

「………!?」

クレーターの上で殴られた瞬間を目撃したクラウディアは目を見開く。

ーーー涙が溢れ、視界が歪んだことに、慶次本人も殴られる瞬間まで気付かなかったのだ。岩の壁にめり込むほどの威力で殴り飛ばされ、慶次の身体は地面に落下する。

『打たせずに打つ』……、それが只の喧嘩とは違う"格闘技"故の、相手を制す為の基本理念であり、理想である。

慶次は、一瞬の隙を突かれ…『打たれた』

「ーーー俺に用か?」

象虫型は、糸の上で蚕蛾型と対峙する小吉の方を見上げていた。

「早まるなよ、まだ"経ってない"だろうが」

ズズ…ッと、引き摺るような音がした。
象虫型は後ろを振り替える。そこでは、張り巡らされた糸を掴み、身体を起こそうとする慶次がいた。

どんな強い想いを抱いた人間だろうと、テラフォーマー(ゴキブリ)にとっては、等しく人間(ムシケラ)にすぎない。

それ故に、 "知らない"

職業なのか?
人種なのか?
資格なのか、形容詞なのかーーー?
兎も角このゴキブリはまだ知らない。"慶次の様な奴等の事を"………


『ボクサー』を、知らない

ーーー頭部から出血し、右眼をやられていたが、
慶次の、象虫型を見据える左眼からは、闘志は消えてはいなかった。





13:僕は僕が天才ではないことを知っている