火星着陸まで、後二時間


03:Ich will zuruckkehren Gestern ist schon vergangen.



続々とAエリアに各国のチームのメンバーが集まってきていた。
中にはまだ起きてこない人、エリアの隅で精神統一をするものなど様々だ。そして、残り二時間という時にシャワーを浴びている者もいる。
幹部の人間はまだ来ていない。
集まってきたメンバーの殆どが、緊張と、恐怖と、任務へのプレッシャーで表情が固く、落ち着かない様子だ。

「………」
「クラウディアさん?」

既にAエリアで待機していたクラウディアとヴィルヘルムは、そんなメンバーの様子を静かに眺めていた。
すると、クラウディアがAエリアの外へと出る扉に向かって歩き始める。

「何処へ?」
「トイレ」
「失礼しました!!!」

「あああ察することができなかった自分が恥ずかしい…ッ!!」と顔を覆って項垂れるヴィルヘルムを、しらーっとした冷たい目で見てからエリアの外に出た。
女性用のお手洗いは、Aエリアから少し離れた場所にある。大体の人間はAエリアに集まっていたため、艦内は静まり返っている。

「…ん?」

お手洗いを済ませ、廊下に出たクラウディアは足を止める。
廊下の左奥…、乗組員が使っている居住エリアの方から、ガタガタと物音が聞こえた。とはいえ、ほんとに小さな物音だ。
まだ乗組員が残っているのか?と思ったが、それにしては人の気配が感じられなかった。
不審に思い、居住エリアの方に歩みを進める。

物音がしたと思われた居住エリアの周囲を探したが、乗組員は誰も残っていない様子だった。このエリアの乗組員は、全員Aエリアに向かったんだろう。

「………(…気のせい、か?)」

気にはなったが、あまり帰るのが遅くなるとヴィルヘルムが探しに来るだろう。誰もいないことを確認し、Aエリアに戻ろうと踵を返す。





「じょうじ」

一切の物音を立てず、それは天井にべったりと貼り付きクラウディアを見ていた。
それの存在に気付き、天井からクラウディアに向かって飛び掛かる一瞬の間、ギリギリの差でクラウディアは最初の一手を交わす事が出来た。
避けた勢いで壁にぶつかったが、直ぐに体勢を立て直し、棍棒を振り上げたヤツの二手目を避ける。

「(何故此処にいる)」

"じょうじ"、と、独特の鳴き声を上げ、襲い掛かってきたのは他でもない、火星に巣食うゴキブリ、"テラフォーマー"だった。



「500年前ーーー」

「我々の祖先は、火星の地球化(テラフォーミング)計画の一環として、火星にゴキブリを放った」
「だが、過酷すぎる環境はついに」
「地球で3億年間姿を変えなかったゴキブリを、進化させてしまった」
「寒さに耐えるため巨大化することはよくあるが…」
「もしもゴキブリ本来の機能であるーーー」

「素早さや」
「しぶとさ」
「頑丈な甲皮などが残ったままだとしたらーーー」

「生身の人間でそれを退治することは、絶対に不可能であろう」ーーー"バグズ2号"の通信記録より


「…二度避けられたのは奇跡だな」

目の前で棍棒を構え、クラウディアをじっと見つめ視線を外さないテラフォーマーを睨み付けるクラウディアだが、その額には冷や汗が滲んでいた。

「(まさかこの一匹だけ…だったら幸いだが、そんな訳ないだろうな。ゴキブリは、一般家庭じゃ一匹で動いてるのを見るのが多いだろうが…)」

ーーーヤツらは、集団で動く



「うわぁあああああ!!」

Aエリアーーー、そこにもう一匹のテラフォーマーが侵入し、乗組員達はパニックに陥っていた。
一人の乗組員が、上半身と下半身を真っ二つに千切られ、床に落とされる。それでも皮肉なことに、手術による肉体強化の影響か、即死には至らず、呻き声を上げながら床を這いずっていた。

人間に潰され、息も絶え絶えに必死に蠢くあのゴキブリのように。

バキョッ、と音をさせ、乗組員の頭はテラフォーマーにより踏み潰される。あまりに惨い光景に、シーラは思わず口を押さえた。

「く、"薬"はッ!!?」
「倉庫だよ!!」
「それより誰か幹部呼んできてッ!!」

既に何人かの乗組員は殺されており、乗組員達は逃げ惑うことで精一杯だった。
そんな中、「お前ら退がれぇえ!!」と、叫びながらアメリカ人乗組員が武器を持ち飛び出してきた。あの誤ってイワンを殴ってしまった男だ。

「お…お前、そんな防犯器具で…」
「そうだよ只の防犯器具だよ!!"人間の"コソ泥対策のな!!でもやるしかねぇじゃねぇかよォオ!!

アレックス!!イワン!!誰でもいい!!この隙に倉庫に行ってくれェーーー!!!」

倉庫には、"火星のゴキブリ(テラフォーマー)"に対抗する能力を得るための薬が保管されている。
現状薬を手にしていない乗組員達には、テラフォーマーに対抗する術はない。

「うぉおあァア!!」

銃を持ち、テラフォーマーに向かって発砲する。
弾はテラフォーマーの身体に次々と被弾していくが、"対人間用"である防犯器具に、それ程の威力は無い。
被弾しながらも、テラフォーマーは真っ直ぐアメリカ人乗組員の方に向かい、そして、

ブチッ、と、嫌な音と女性乗組員の悲鳴が響く。
アメリカ人乗組員の首は、テラフォーマーの驚異的な腕力により"背骨ごと引っこ抜かれていた"。そして、頭を掴んだまま、テラフォーマーは二人の乗組員を"背骨"を使い、首を切り落とす。

「あ…っ、ひ…」

惨い光景を目にしたエヴァは、恐怖のあまり失禁し、その場に座り込んでしまっていた。



「"アネックス1号"よりワシントンへ
地球へ引き返します。今ならまだ間に合う」

テラフォーマー侵入の事態を受け、小吉は本部と連絡を取っていた。
既に居住エリア、Aエリアに侵入したテラフォーマー2匹以外に、他3〜4匹のテラフォーマーの侵入が確認されていた。

「持ち帰るサンプルは艦内に侵入したテラフォーマーおよそ5〜6匹。"着陸前の戦闘開始"にてマニュアルに従いーーー

既に、引き返し始めています」

『それはいけない小町艦長。テラフォーマー6匹では恐らく足りないだろう。 プランδに移れ』
「プランδは"本艦で帰還が出来ない時"のための予備プランです」
『人類の未来と20年分の費用が懸かっている。この任務に失敗は許されないのだ

信じるんだ………小町艦長、幹部達の強さと…我々の調査を!』

"ランキング"上位の者がいればーーー
必ず下位の者を守りながら任務を遂行できる!

本部からの言葉を受け、小吉は深く息を吐き、言葉を紡ぐ。

「ーーー以前、離陸した宇宙艦を大量のゴキブリが飛んで、撃墜するのを見た事がある………


だが俺等が今居るのは何処だッ!!火星熱圏上部だ!!勢いでどうにか来れる場所じゃねぇ!!

酸素なしに来た事位で今更驚きゃしねぇけどな…勘で宇宙艦に飛び移ったってのか!?
羽ばたく事すらままならない筈……それとも…最初から隠れていたのか…!?

いずれにせよだッ!!
既に買われてるか脅されてるかも知れねぇテメェらに言っても無駄だろうがなぁーーー



誰かが手引きしてんのは明らかだッ!!!!!」

直後ーーー ドンッ!!という轟音が艦内中に響き渡り、宇宙艦全体が大きく揺れた。
小吉の言う"何者か"の手により、宇宙艦のどこかが爆破されたと考えられる。

「こりゃ墜ちてますね…」
「マジかよッ!!」

地球に引き返そうと動いていた宇宙艦は、明らかに出力を失い、火星の重力圏に引き込まれる形で墜落を始めていた。

「(何故テラフォーマーがこのタイミングで侵入してきたのか考えたくもありませんが…、クラウディアさんは一体どこに…ッ!!)」

その時、艦内に放送が流れた。小吉からの放送だった。

『こちら小町小吉、"アネックス1号艦長"



プランδに移行する』

火星到着後、小吉の指揮により、アネックス1号を中心に全員で行うウイルス調査。
幹部乗組員と"ランキング"上位の者が前線に防衛線を張り、下位の者がその内側でサンプルの採取や研究を行い、目標数のウイルスを確保後に地球へと帰還する計画。

これが、プランα。
本来火星に到着した際に行われる筈だったプランである。

そして、プランδとは、
アネックス1号で帰還が不可能な際の予備プラン。
100人を6つの班に分けて、高速脱出機に乗り込み、全滅を避けるため別々の方向へ飛び火星へ着陸。着陸し次第、アネックス1号へ集合し、ウイルス研究を続けながら、
40日後に地球からの救助船により帰還する計画である。
独立した班の指揮は6人幹部乗組員が行い、本艦の研究設備が大破していた場合は、各班がテラフォーマーを捕獲する必要がある。

「マジか…」

未だに1匹のテラフォーマーと対峙し、身動きが取れないクラウディアは放送を聞き焦る。
先程の爆発音で察してはいたが、やはりこの宇宙艦は墜落している。火星に落ちるまで、およそ40分というところか。

「…ッ!!」

再度襲い掛かってきたテラフォーマーの一撃を、紙一重で交わす。棍棒が髪を掠めたが、直ぐに距離を取り離れる。そこへ、

「!!クラウディアさん!!」

何人かの乗組員が逃げてきたのか、此方へ走ってくる。真っ直ぐクラウディアを見ていたテラフォーマーは、一瞬走ってきた他の乗組員の方に気が逸れた。

ドゴッ 鈍い音がした。その一瞬の隙を突き、クラウディアはテラフォーマーの首に蹴りを叩き込んだ。
テラフォーマーはバランスを崩し、壁に激突した後その場に倒れる。

「!、鬼塚」
「クラウディアさん大丈夫ですか?!」
「奇跡的に無傷だ」

『鬼塚慶次』
日米合同第一班のメンバーの日本人だ。慶次の後を追って走ってきたメンバーの殆どが、日米合同の班員達だった。

「すげぇ…生身でゴキブリ蹴り飛ばした…」
「感心するな、ゴキブリからしたら大した威力じゃない。精々人間がデコピンされたくらいのダメージだろうさ」

のそりと、テラフォーマーは直ぐに起き上がった。
起き上がったテラフォーマーを見て、他の乗組員は怯み、後ずさる。

「薬は…」
「倉庫だろうが、恐らくもう駄目だ」
「え!?」
「こいつ等は明らかに"人の手によって侵入させられた"。だったら、私達が闘うために必要なもん、先ず"壊す"だろ。当然。
こんな所まで火星から飛んできたんだったら大したもんだがな。

艦長がプランδに移行したということは、事態は急を要する。お前達は脱出艦のある格納庫に迎え。他のヤツ等もそうする筈だ」

「は、はい!」何人かは返事を返し、踵を返して格納庫に向かって走り出した。

「クラウディアは!?」

『アミリア・ヴェンカテッシュ』。
クラウディアと同班のアメリカ人女性。彼女と慶次だけは直ぐに逃げるのを躊躇った。クラウディアがテラフォーマーから目を逸らさなかったからである。

「私はこいつを足止めする」
「無茶だよ生身で!!」
「全員逃げたら、背を向けた瞬間頭吹っ飛ばされるのが落ちだ」
「だとしてもクラウディアさんだけでは!!」

「おーおー、やってるね」

慶次とアミリアの後ろから声がした。二人は声がした瞬間振り向いたが、クラウディアは表情を険しくさせ、振り向くことは無かった。

「クラウディアちゃん、男前じゃんー、他の乗組員先に逃がすなんて、生身なのに」
「………劉翊武…」

じとりと、横に並んだ2m越えの長身の男を睨み付ける。
『劉 翊武』。中国・アジア第四班班長。長身に眼鏡、豊かな髭という風貌の男性。
劉は「仮にも幹部呼び捨てはないんじゃないの?クラウディアちゃん」と、軽い乗りで笑い、クラウディアの肩を叩く。しかし、間髪入れずにクラウディアに払い除けられた。

「私に触らないでいただけますか」
「美人に冷たくされると辛いねぇ。…照れ隠し?」
「単純に嫌いです」

「キッツイなぁ!」と笑い飛ばす劉だったが、クラウディアの表情は険しいままだった。そんな二人のやりとりを見て、慶次とアミリアは冷や汗を流す。

「ここは俺がやるから、クラウディアちゃんも彼等と一緒に格納庫に向かっちゃって。そっちにアドルフ君行ってるから」
「…!」
「クラウディアさん!早く!」

アミリアに手を引かれ、格納庫に向かう。劉と離れ際に彼を睨み飛ばすのを忘れずに。

「大丈夫なのか!?いくら幹部っつったって…!」
「…薬は倉庫だけにあるんじゃない。今から私達が向かう格納庫にある"高速脱出機"、そして…"幹部の個室"」



"アネックス1号"のクルー達を指揮する立場にあり、
主に、軍隊出身者で構成される"彼等"は、

"対人"でも "対虫"でもない

日本 ドイツ 中国 アメリカ ロシア ローマ連邦



各国加盟国より選り抜きの、

"対テラフォーマー戦"のプロフェッショナル達である。





03:戻りたい昨日もすでに亡く