「やぁ、こんばんは。こんな所で会うとは偶然だね、ミスター蛭間」

アネックス1号が地球を出発してから39日目の事。
日本、埼玉県字浦市。商店街の路地の一角に、小さなバーがあった。BAR"海豹"…そこにある男が客として入っていた。

国連航空宇宙局『アネックス1号計画』副司令官、日本国航空自衛隊三等空佐ーーー『蛭間七星』
もう一人、BAR"海豹"のマスターの男、『本多晃』…そして元、 東工大教授の博士であり、技術者として"バグズ2号計画"に関わっていた。
だが、核兵器が持てず国連で立場の弱い日本のために抑止力・戦力としてテラフォーマーを活用するため、彼等の卵鞘を秘密裏に持ち帰るという独自の計画を画策していたのだが、計画は頓挫し以降姿を眩ましていた。

そして、もう一人たった今入店してきたこの青年の姿を目にし、蛭間七星は目を見開き、本田晃は危うく拭いていたグラスを落とし掛けた。
見目はまだ20代中盤から後半くらいの青年だが、二人の様子を気に止める事なく蛭間七星の隣のカウンター席に腰掛ける。

「マスター、ウォッカ頂戴。ロックで」
「何故貴方が日本に…、外に居る私の部下は、」
「あ、頼んだらすんなり通してくれたよ。身体チェックはされたけど」

「武器とか日本に持ってくるわけないじゃん物騒な」けらけらと気さくかつ垢抜けた態度で蛭間七星に笑い掛ける。が、蛭間七星はこの青年が現れてから気を抜けない、といった様子で肩を強張らせていた。
本多晃はウォッカをグラスに注ぎ、男に渡す。

「ありがとう」
「い、いえ…」

ウォッカを受け取り一口飲んだ。悠長な日本語だが、見目は明らかに日本人ではない。
この日本の路地の一角にある小さな店にいるというのが不釣り合いなほど、美しい容姿をしており、一つ一つの所作が絵になる。一層目を惹くのが、店の中の蛍光灯の光に当てられ輝く、銀色の髪だった。



05:Dann lege deine Hande auf den Ausloser.



「良い店じゃん此処。表通りにあるような喧しい店とは違って静かだし、五月蝿くないし、何より酒が美味い」
「………ゼルクさん、貴方はいつも神出鬼没過ぎます。…私が此処に来るという情報を一体どこで、」
「酒の席で小難しい話は無しにしようぜミスター蛭間。ていうかほんとこの呼び方アンタの兄さんと被るから名前で良い?」

グラスを手に持ち笑うこの男、『ゼルク・A・アーク』という。本名なのか定かではないが、本人が名乗るのがこの名前。
本人の素性・国籍共に不明な点が多いが、この男の居る"世界的な立ち位置"に、先程二人に緊張が走った主な要因となっている。

「まぁ、冗談はさておきだ。貴方が此処に来る理由については私個人が調べた事で、外部には漏れちゃいませんよ。漏らしたところで彼が抹殺されるか、もしくは彼の技術欲しさに金を出そうとする国に私が売り飛ばすかだ。

ね、本多晃博士。今は元博士か」

にこりと笑うゼルクに、本多晃は冷や汗を流す。

「だーけーど、私はそんな金が目的って訳でもなく、ましてや殺しに来たわけでもない。貴方がそうだろう、蛭間七星。U-NASAの職員として此処に来たのなら、あんな少人数の部下だけ引き連れてくるもんか」
「…ならば貴方は何故此処に?」
「好奇心」

飲んでいたウォッカを飲み干し、「おかわり」と本多晃にグラスを差し出す。「好奇心…?」と、怪訝な表情を浮かべる蛭間七星だったが、"この男なら本当に好奇心だけで此処に来かねない"という考えが脳裏を過る。

「色々厄介な事しでかしてくれた元技術者の男が、運良く今の今まで生き長らえて、そしてとうとうやって来たU-NASAの男を前にしてどうするか…なーんて事もちょっと気になったんだけど、」
「………けど?」
「貴方が彼を抹殺に来た訳じゃないと知ったので、彼がどう出ようが殺しはしないよ。私も日本敵に回したくないし、回すつもりもない

貴方は日本国自衛のために彼を探し出したんだから」

そこまで話を掴んでいたか…と、蛭間七星は小さく息を吐く。"彼の前で隠し事は無意味に等しい"とは、もはや今に知った事ではない。
そして、彼が蛭間七星、および日本の"しようとしている事を知った上"で此処に来て、邪魔をするつもりがないというのなら、蛭間七星にしても日本国にしても、"心強い事はない"。

「…あ、本多博士、あれ」
「え?…うお…!」

ちょいちょいと指を差した先には、壁を這うゴキブリがいた。

「いやぁハハ…、うちも表向きは飲食店なんで、気を付けてはいるんですが…そいつばっかりは…、どこからでも入ってきますからなぁ」

ダンッ!!ブチッ
蛭間七星が壁を這うゴキブリを踏み潰した。それを見てゼルクは「うわぁ」と顔をひきつらせたが、構わずぐりぐりと念入りに潰す。

「…可愛いもんだ、地球のゴキブリは。地球の人々は、まさか思いもしないだろうな。"こんなふうに"ーーー

"火星では、逆に"



"『ゴキブリが襲ってくる』なんて"」





「ーーーッシーラ!!」

マルコスの叫び声が機内に響いた。
シーラの真後ろから、強化硝子の天板を突き抜けテラフォーマーが殴り掛かったのだ。シーラに怪我はなかったが、天板には大きな穴が空き、そこからテラフォーマーは無理矢理穴を広げ侵入しようとしてくる。

「(今のパンチはシーラを狙ったものじゃない。こいつ等は私達が"変身"する前にーーー)」

"薬を壊す気"かッ!

「艦長!!」
「フン!!」

小吉は脱出機のハンドルを切り、一気に加速させた。突然動き出した脱出機から、テラフォーマーは振り落とされる。

「ヤロォ……!!」
「(脱出の時既に機体にしがみついていたのか…、機体の真下はレーダーの四角になるからな…、だが、お陰で奴一匹を孤立させられたか)」

「マルコスと慶次だけ"薬"と"網"を持ってついて来い!!下位ランクの者は車の中に身を隠し、何かあればクラウディアの指示を聞け!!"A・Eウイルス"サンプル獲取のためにコイツをーーー

この場で捕らえる!!」

ある程度テラフォーマーから距離を取ったところで、小吉、マルコス、慶次の三人は薬と網を持ち、脱出機の外に出た。

「"薬"を打て。"特性(能力)"を使う!」
「!確かマニュアルじゃ相手が一匹の時はーーー」
「あぁ。だがコイツ等には未知の部分が多い。たとえ一匹でも持てる技術の全てを持って対処すべきだ」

小吉に言われ、マルコスと慶次は薬を打とうとする。
だが、薬を打つ前に、テラフォーマーは背中の羽根を広げて飛び立った。目の前に居る三人は素通りし、真っ直ぐ脱出機へと向かう。

「!?…チッ!飛んーーー」
「シーラ!!!」
「クラウディアさん!!」

ゴキブリ特有の瞬発力に追い付くわけもなく、テラフォーマーは脱出機の上に飛び移り、先程開けた穴を掴んで天板の一部を剥ぎ取った。

「(あの野郎まさかーーー脱出機(車)を奪おうとしている!?)」

「チッ」
「?!クラウディアさん!!」

既に薬を手にしていたクラウディアが、下位ランクの乗組員の前に出てテラフォーマーの前に立つ。そして、薬を打とうとした時だ。

ピンーーー
テラフォーマーの眉間に、赤いレーザーが当てられた。シーラが網を手に持ち、テラフォーマーに向けて網を向けていたのだ。

「!!(シーラ…!?)」
「ハァ、ハ…ッ   "捕獲"!!!」

バンッ!!という音と衝撃ともに、照準器から網が射出された。

「これが照準器。違う違うこっちだ」
「テストの結果、シーラ(お前)はマーズランキング89位…」
「だからゴキブリと殴り合う必要は無いがーーー」
「網の使い方だけは憶えておくんだ」
「お前がこれを使うのは、万に一つの事態だがー、その時大切な人を守れるようにだ」



「また、地上で!」




網はーーー、

世界の各地で先史時代から使用されてきた長い歴史を持つ。
その活用のされ方は広く、人々の暮らしの中で様々に応用・工夫されて、多種多様の網製品が作り出されてきた。

網地の素材は、麻糸・木綿(綿糸)・絹糸・シナ系・カザワ系稲藁・シュロなどから、次第に科学繊維の素材へと変わっていった。

「うぅ…!!!」

網に絡め取られたテラフォーマーは暴れ、その勢いに引っ張られそうになる。直ぐにシーラに加勢しようとしたクラウディアだったが、その前に、脱出機に上がってきた小吉が、シーラの持っていた網を掴んだ。

「艦長…!」
「逃がすもんかよ」

ドイツ開発『対テラフォーマー発射式蟲獲り網』の網地となる繊維は、クローン技術により復元・解析されたテラフォーマーのデータを元にーーー、奴等の筋力の3倍でも千切れないよう設計されている。
暴れれば暴れる程、余計に絡み付くだけである。

ーーー網は、人類の知恵の結晶であると言える。
人間がこれまでに作り出してきた道具の中で、網ほど戦略的な道具は少ないだろう。

網に捕まり暫く暴れていたテラフォーマーだったが、一頻り暴れた後息を切らしながら大人しくなった。

「マルコス!車の"虫籠"を開けるぞ!コイツ放り込むの手伝ってくれ」
「……っス」
「大丈夫でしたか?」
「あぁ、…シーラのお陰でな」

「…良くやったぞシーラ。お前の勇気がこの場の全員の命を救ってくれた」
「………はいっ!」

艦長に褒めてもらい、嬉しそうに笑うシーラを見てほっとしたのも束の間だった。
カサ…と、音を立て、網に捕まり転がっていたテラフォーマーは、体勢を変え、両手をシーラの前に突き出した。



「…本当はーーー、先程からゼルクさんの言っている通り、貴方を見付けたら殺せと言われているんですよ、本多さん」

あ、やっぱり?と、二杯めのウォッカを飲み終えそうなところのゼルクは、隣で笑った。本多晃は、冷や汗を流しながらも言葉を紡ぐ。

「………根に持っているのか…、20年前、『バグズ手術』を勝手に行ったことをーーー」
「ふ…まぁ当然でしょう。日本国(私等)から見れば「良くやった」、ですがね。戦争状態にある、ないに拘わらず……、集団対集団の関係において"最も恐ろしい"のはーーー」

カランと、氷が鳴った。
照明に照らされて、グラスの中の氷が宝石のように輝く。

「…"技術を奪われる事"、だよねぇ」

グラスの中のほぼ残っていない一滴足らずのウォッカを惜しむように、氷水と一緒に口に流し込んだ。



「………!?(何だ?)」

不自然な体勢で突き出された両手。
両手ともの手のひらをシーラに向かって見せていたが、小吉が気になったのはそこだけではない。テラフォーマーの手のひらには、本来テラフォーマーには無い、"穴"が開いていた。
異変に気付き、小吉がシーラを突き飛ばそうとした時には、

既に遅かった。



ドンッ!!!

「「…!!?」」
「………!!!……バ…!?」

『火』では無かった。
シーラの胸を貫いたのは、超高温の   "ガス"

『過酸化水素』と『ハイドロキノン』

「バ……バ………っ!!



『バグズ手術』……何でだ………ッ!!!シーラァあぁーーーッ!!!」



05: そしてトリガーに手をかけて