人より早く大学を卒業し、空軍での訓練を経て、最短距離で火星探索チームの幹部になったのが22歳ーーー
(この時、私に父の力が遺伝しているのが明らかになった事もあって、すんなり入れたのだろう)

新しくなったIDを、訓練帰りに受け取った時には、既に19時を回っていたが、その足で建物の奥へ向かった。全てが明らかになるなどといった期待はしていなかったが、少なくとも、一般職員には入れない資料室へとーーー



09:Bitte verfolgen Sie den Umriss, verschwinden Sie nicht.



「ーーー脚が、異様に発達してんな…。ゴキブリもよ…走り込みとかスクワットとかしてるとそうなんのか?それとも站椿とかやってたりして」

冗談混じりに話す燈だったが、テラフォーマーを見るその眼は真剣そのものだった。頭では、そんな事をしている訳がないと解っている。

「…違いますね、この脚は、全く違う」
「……、

……"飛蝗"か?お前」


燈とヴィルヘルムがテラフォーマーと対峙したのと同じ頃、ミッシェルは水場に潜んでいたテラフォーマーに苦戦を強いられていた。水中へ引きずり込まれまいともがいていたミッシェルだったが、遂には水中深くへと引きずり込まれてしまった。

「(……チッ、深ぇな…。それよりもコイツの手…吸盤の様になっていて、離れない)」

ミッシェルの胸と肩を掴む手は離れる気配は無い。加えて、このテラフォーマーの脚はブラシ状に変化しており、水をとらえやすい形体だった。予想以上の推進力で水中へと引き込まれたのだ。そして、背中…翅の形状も他と違っている。

「(コイツの、水中戦に特化した躰ーーー『ゴキブリ』じゃあない。こ!は…『ゲンゴロウ』…か?
こいつは、ゴキブリではなくゲンゴロウから進化したという事か…?それでも、似た様な面構えになるもんなんだな。…地球のゲンゴロウは、ゴキブリと違って結構キュートだというのに)」

500年前にゴキブリを火星に放った時に、ゲンゴロウも混じっていたのか?
当時、水場も無いのに良く生き残ったもんだ

「ーーー…(はは……、なかなか想像力があるな、…私も………)」


そんな訳ないだろうに


ーーー水中で、怒りに震えるミッシェル
以前、IDを手にして資料室に入ったミッシェルが見たものは、20年前…『バグズ2号』に搭乗した乗組員達全員のデータだった。
その中には、ミッシェルの父を含む乗組員全員のデータが記されていた。名前、出身国、身長や血液型など個人のデータ…そして、

当時乗組員達に施された、"バグズ手術"の"ベースの昆虫"の名前と、データも。

「…"俺らの"親世代の誰かか?」

脚が異常に発達した、飛蝗(バッタ)の様な個体のテラフォーマー
そして、水掻きを持ち、本来ゴキブリが生息できない水中で活動する、ゲンゴロウの様なテラフォーマー

三人は直ぐに気付いていた。気付いていたからこそ、まだ冷静に対応出来るつもりだった。まだ一つの"可能性"には過ぎなくとも、恐らくその事実に間違いはない。
生き残った2名以外の乗組員達の遺体は、持ち帰られる事なく…全て、火星に取り残されていた。遺体を全て回収する時間も、余裕もなかった当時、誰もその事を攻める事は出来ない。

だが、


「ーーー死体を、弄ったのか…?」


その行為は、人間の怒りを買うには充分過ぎる愚行だった。

ミッシェルは自分の胸を掴み離さぬその腕を鷲掴み、常人ならざる力で無理矢理引き剥がした。その際にテラフォーマーの腕に皹が入り砕ける。
燈の糸で捕らえられていたテラフォーマーは、その脚で甲板を砕き、糸の力を緩め、砕いた甲板の破片を燈とヴィルヘルムに向けて蹴り上げた。だが、二人はその破片を避け、明後日の方角に蹴り飛ばす。

「………この飛行機は止めない」
「てめーは、」

「「2分以内に倒す!!」」


先ずミッシェルは、どうにか距離を取ろうとゲンゴロウ型のテラフォーマーの顔面目掛けて蹴りを入れた。かわされたが、ゲンゴロウ型の手から抜け出す事が出来、水面に上がろうとする。ーーーだが、直ぐに脚を掴まれ引き戻された。

既に、勝負はついていた。
あの時、直感的に父親世代(バグズ2号)の遺体がゴキブリに利用されているとミッシェルは理解した。察しが良かったからこそあの時点でーーー酷く動揺した。
動揺したからここまで引き込まれた。いくらミッシェルといえどーーー

水中では勝ち目はない。

ゲンゴロウは、流線型の体に吸盤の前脚、鰭状の後脚、加えて、一部の水棲昆虫に特有の呼吸法を利用する。
翅と背中の間の隙間に、空気を貯めた状態で潜水する訳だが、これを空気ボンベの様にただ消費するのでは"ない"。ここの酸素が消費され、CO2の分圧が増えると、周りの"水の中の酸素"とガス交換が起こる。
すると、背中の空気をただ消費するよりも10倍以上長持ちさせる事が出来る。
これにより、ゲンゴロウは鰓を持たずして、水中では10分〜清潔な水なら数十分の活動が可能となっている。

対して、訓練を積んでいるとはいえ、純陸上生物であるミッシェルの無呼吸での活動限界は、およそ"2分"…
"爆弾アリの能力"も、敵の体温が周りの水温と同様に低いと炸裂しない可能性が高くーーー

この時点でミッシェルに、勝ち目は無かった。

ーーー勝ち目が無いならミッシェルは、敵の機動力を封じ、目を閉じる。
脚に万力の様な力を込めたまま、体の動きを止めーーー

数える。2分を。

『窒息・第T期』
数秒〜数十秒の間(訓練により延長可)、体内の酸素を利用。血中のCO2の増加により苦痛を伴う。
『窒息・第U期』
T期より30秒〜2分の間に血圧上昇・筋肉の痙攣・チアノーゼ・失禁を伴う。
『窒息・第V期』
U期より更に進行後、意識を完全に消失ーーー。痙攣は止まり、非常に危険な状態となる。

ゴキブリは痛みを感じない。
感じないからこそ戸惑っていた。

水中では無敵の機動力を生み出す筈の己の脚が、ほんの1ミリも動かせない事に。
その点はミッシェルにとっても好都合だった。
もし相手に痛覚があれば、地獄の痛みに泣き叫びのたうち回っていただろう。そうなれば、ミッシェルもこう落ち着いてはいられない。

だが、見た目に反し、この『フィギュア4レッグロッグ』という技は、実際にーーー


『2分間我慢すると』
『骨折する』と言われている。

バキッ!!と骨が砕ける音がした。痛覚が無いとはいえ、自分の脚が突然折れ、砕けた事に驚いたテラフォーマーは目を泳がせる。

ーーーが…、一人で潜水を行う児とは、通常の水泳競技の練習等においても厳禁とされている。脳は、酸素が行き渡らないと直ぐに正常な機能を失うからである。
鍛え上げられた心肺機能を持つミッシェルも、息を止めたままの戦闘が2分以上も続きーーー

脚のロックを解いて水面まで上がる判断力は既に無かった。
窒息は、次の『第W期』に入ると、回復は望めず、それを過ぎると、

ーーー死に至る。



「ぜぇーーーっ!!…ッはぁ…!!」
「た…助かった…!」

アレックスが、燈により不可抗力とはいえ吹き飛ばされた八重子達を救出し、地表に何とか着地していた。
燈の糸により繋がれていた他の乗組員達を、全員無傷で救出する事は出来たが、飛ぶ事に慣れていないアレックスが地表に着地するまで、数分の時間を要していた。

「(…班長がまだ上がって来てない…!!燈とヴィルヘルムさんは…)」

脱出機が飛んでいった方角に眼を向ける。常人ならば肉眼で捉えることは不可能だが、人為変態し鳥類特有の視力の良さで、アレックスは脱出機の姿を捉え、その上にいる燈達を見付ける。

「…まずい…!!!」


「…じじょうじょ」
「燈君!!」

テラフォーマーの蹴りをまともに受けた燈は吹っ飛び、脱出機の壁に激突した。頭から出血し、気絶している。

「………」
「…あーあー、全くもう!」

目の前に仁王立ちするテラフォーマーと向き直ると、目の前には既に蹴りが飛んできていた。それを紙一重で避け、体制を整えテラフォーマーの腹に膝蹴りを叩き込んだ。
テラフォーマーは少しよろめいたが、致命傷には至らず直ぐに立ち直った。

「じょうじ」
「やはりそれだけでは倒れませんか。…しかし、彼を倒して余裕綽々…って感じですが、勝ち誇るにはまだ早いのでは?」

ニッと笑ったヴィルヘルムの背後で、燈はゆらりと立ち上がった。

「ハァ…ッ」
「大丈夫ですか燈君」
「いてて…あんま大丈夫じゃないッスね…、くそ痛いです」
「素直でよろしい」

「ふ…、不思議か…?」

燈の方にじっと視線を向けるテラフォーマーに問い掛ける。無論、答える事の無いテラフォーマーに構わず、燈は続ける。

「バッタの脚力ってのは…人間大に直すとビルを飛び越す位強烈らしいな?それなのに「何故壊せない?殺せない?」「何故切断出来ないのだ!?」「この人間は!?」…ってトコか?教えてやろう。……それはテメーが、ゴキブリだからだ」

深く息を吐き、スッ…と、テラフォーマーに指をさす

「多分…お前より、『バグズ2号』の飛蝗だったやつの方が強い

確かにお前らの力も疾さも頑丈さも驚異だ。そして恐らく…、この高速脱出機自体は見た事がないとしても、"人間が残した機械"の扱い方を理解している」
「ーーー若しくは、理解した個体から指導を受けている。だとしたら、お前達はそいつを中心に統率が取れていて、お前の行動の迷いの無さから見てもーーー」
「お前等のリーダーにはヴィジョンがある。…その知性も力も全く脅威だぜ…それでもだ

それでもお前等は、戦い始めて日が浅い」

目の前にテラフォーマーの蹴りが迫り、燈は糸を束ねた物でその蹴りを防ぎ、受け流す。あの脚から放たれた蹴りをモロに受けた後だ。ヴィルヘルムから見ても燈が満足に闘える状態ではないと分かる。
受け流されたのにも構わず、再び蹴りを入れようと構えるテラフォーマーだったが、その脚が上がることはなかった。
既に、燈の糸により脚は捉えられていたからだ。

「………よぉ…、どうした?ここまで近付かれるとーーー…蹴りが出ないか?

せァアッ!!!」

数十センチしか間が無い距離で、燈はテラフォーマーの左顔面に見事な蹴りを打ち込んだ。

「最初の1年は型と柔軟(またわり)だ。出直してこい」

テラフォーマーは倒れ込み、同時に燈も膝から崩れ落ちた。立っているのもやっとだったのだろう。
頭に一撃を食らい平衡感覚を失っているテラフォーマーは、どうにか立ち上がろうとしている。

「ハァ…ッ、立つな……ハッ…!この飛行機は、止めさせねぇ…っ!!

折角長さ調節しておいたんだからよォ……ミッシェルさんならよォーーー……必ず呼吸の限界、2分かその前に敵を仕留めている筈だからな!」

燈が何の事を言っているのか一瞬理解が追い付かなかったが、直ぐに解った。そして、思わず感嘆の声を漏らしそうになる。この男はずっと彼女を信じ、そして、彼女のために"手を打っていた"のだと。

燈の指先から産み出されていた一本の糸は、水場でゲンゴロウ型のテラフォーマーと戦っていたミッシェルに繋がっていた。そして今、ミッシェルはその糸に引っ張られ、水面から顔を出してきていた。

「ヴィルヘルムさんッ!!!」
「はいッ!!」

ハンドルを切り、脱出機のエンジンを逆噴射させ、スピードを一気に落としていく。既に相当のスピードが出ていた脱出機の逆噴射による衝撃は強く、振り落とされないように踏ん張っていた。
その時、ゆらりとテラフォーマーは再び立ち上がった。

「おい、立つなっつったろ!」

ガッ!!! 立ち上がったテラフォーマーに、最初燈が蹴り飛ばした船の破片が激突し、テラフォーマーを船の外に弾き飛ばした。

「『慣性の法則』!…だよな?これ多分。理科は覚えなきゃいけねー事いっぱいあるよなぁ…国語と違って」
「これ、ゴキブリが私の後ろにいてくれなきゃ私が危なくなかったですか?」
「う"ッ…で、でもヴィルヘルムさん気付いてました、よね?」
「気付いてなかったら今怒ってます」
「良かった…っっ」

船から落とされたテラフォーマーは、翅を広げ飛び立とうとするが、翅を広げた瞬間、何かが翅を貫通した。
地表にいるアレックスが投げたボールだった。正確には、鳥類型用の薬の入っていた入れ物だが、それでもゴキブリの翅を狙って仕留めるのは、アレックスには造作もない事である。

「跳んでるバッタならともかくーーー、翅広げて飛んでるゴキブリなんざ、的だぜ?も一丁ォ!!!」

もう一球、テラフォーマー目掛けて投げられる。先程は不意を突く事が出来たが、今度はテラフォーマーはしっかりと投げられた球をとらえ、蹴り飛ばそうと脚を振り上げた……が、球は途中で軌道を変え、カーブを描き、テラフォーマーの軸足の膝に直撃した。

「今のはM.O.の鳥の能力じゃないぜ。1867年に突如現れた"人類最初の魔球"『カーブ』と、それを支える『マグナス効果』だ!テストにゃ出ないぜっ」

翅を片方潰され、飛行手段を無くしたテラフォーマーは成す術無くそのまま地表に向かって落下していった。

その時、脱出機に突然通信が入る。

「!」
「何だ…通信か…?これ…」
「どこの班から…」

"MESSAGE"と表示された画面モニターを開く。そこに表示されていたのはーーー

"SOS"
From No.6 division
ROMAN FEDERATION

ジョセフ・G・ニュートンを隊長とする、第六班からのSOS信号だった。



「…ゴホッ!!…ん…、………はっ!!」

意識を失い掛けていたミッシェルだったが、ギリギリのところで地表に引き上げられたため、数分気を失っていただけで済んだようだ。自力でその場に起き上がる。

「(ーーー外!!…何で……何してた?もう朝メシ食べーーーちげーよ火星だ!!!!)」

一瞬記憶が混濁していたようだが、直ぐに正気に戻り、自分の顔に触れて、全身がずぶ濡れの状態であることにも気が付いた。

「(水!そうだ…!確か湖に…、)」

不意に足元を見ると、ゲンゴロウ型のテラフォーマーの脚を組んだままの状態だった。取り敢えず起き上がろうと組んでいた脚をほどくが、ミッシェルが動いたため両足はバキバキと音を立てて真っ二つに折れた。

「そうか……だんだん…思い出してきた……。…この右手だな」

水場に逃げ込もうと這いずるテラフォーマーの右腕を掴み、本来曲がる方向とは逆の方角にねじ曲げ引きちぎった。
その時、自分の足に燈の糸が結ばれていることに気付く。

「……"糸"……、………そうか、燈が、助けてくれたのか…」

ドンッ!!!ミッシェルの近くに何かが着地した。バッタ型のテラフォーマーだ。その姿を目にしてミッシェルは身構える。

「…てめぇ、燈を…私の仲間をーーー「よいしょッ!!」

再び、今度はミッシェルの背後で何かが着地した。「……あン?」と呆気に取られた顔で振り向くと、ヴィルヘルムと彼に抱えられた燈の二人が立っていた。

「紐無しバンジーはなかなかスリルありましたね。大丈夫ですか?」
「飛ぶときは飛ぶって言って下さいよ!!いきなり抱えられたんでめっちゃビビったんですけど!?」
「あはははは、すみません」
「笑い事じゃないです!!…あ!ミッシェルさん!!良かった無事で…いてて…、今脱出機の上でなんとかソイツを叩きましてーーー」

燈によると、バッタ型のテラフォーマーを糸で繋いだままにしておいた燈は、地上に降りてバッタ型、ゲンゴロウ型の2体を"蟲籠"に入れようと、脱出機でUターンをして此処まで戻ってきた、…という事らしいのだがーーー

「その…それで…いてっ、それでですね…」

何やら言いにくそうに言葉を濁らせる燈。その時、バッタ型のテラフォーマーは燈の糸から抜け出そうと、まだ潰されていない方の脚に力を込め踏ん張っていた。

「…おっとこの野郎、まだやる気かよ…!!」
「流石にしぶといですからね、ゴキブリは」
「ミッシェルさん、他の皆は今頃アレックスが保護してる筈です。死者も出てません。ミッシェルさんもまだ酸欠でしょう。ここは俺等が…」

ずぶ濡れ状態のミッシェルに自分のコートを被せる。そんな燈に対し、少し笑ったミッシェルは、直ぐにそのコートを燈に被せ返す。

「誰が酸欠だって?」
「ぐおッ!!?」
「お前もフラフラじゃねーか。あと臭せーぞこのコート」
「ミッシェルさんミッシェルさん、締まってます。一応彼怪我人ですから」

「…ったく…、ーーー撤回するぜ燈。お前は良い部下じゃあない…」

バシッ!!「ぁ"痛ッッて!!」…燈の背中から良い音がした。ミッシェルが燈の背中を思い切り叩いたのだ。横で「あれは痛い…」と顔をひきつらせるヴィルヘルム。

「『いい男』だ!」

背中を押さえて悶絶する燈にそう言い、テラフォーマーに向かって駆け出した。

「祈れ。火星に神が居るならな」

テラフォーマーの顔面に強烈な膝蹴りを食らわせ、吹っ飛んだテラフォーマーは宙を舞い、燈の糸に更に絡まりながら地面に叩き付けられた。
バランスを崩したミッシェルに手を差し伸べ立ち上がらせる。

「"謎のバグズ型テラフォーマー"2体、捕獲完了!」
「それじゃあーーー仲間と合流して脱出機の所へ行くか」

「「…………」」
「…どうした、燈?ヴィルヘルム?」

何故か冷や汗を流して黙り込む二人に、ミッシェルは首を傾げた。


そしてその後、アレックス達と合流し、脱出機の所へ向かった第二班メンバーは、唖然とする。
脱出機が岩場に激突し、煙を立ち上らせ変わり果てた状態になっていた。

「す…すみません…」
「………」
「い…イマイチ降りる場所がわかんなくて…その…」

先程言いにくそうにしていたのはこの事だったようだ。

「あ…あの…それと、着地(?)する前ーーー…最後に通信が入ってました」
「"SOS"です」
「!どこからだ?」


「『第六班(ローマ)』と、『第一班(日本)』です」



ーーーーーーーーーー…
ーーーーー…
ーーー…

「……そろそろ…本題に入りますか」

一杯目の酒を飲み終えた頃、七星は切り出した。

「一つはーーー『膝丸燈』に関する事…そしてもう一つは、」
「七星酒のおかわりいらないの?」
「………………すみませんもう一杯」
「え…ハイ」

ゼルクに言われたからか元々二杯目を頼もうとしていたのか、空になったグラスを渡す。

「……"ファイターとスニーカー"ってーーーご存知ですよね?」
「『ファイター』と『スニーカー』……昆虫の生態のですよね……?そりゃあ…」

二杯目の酒を注がれたグラスを渡され、七星はそれを今度は一気に飲み干した。

「…『アネックス1号計画』の司令官はアメリカ人です。その下に私を含めーーー


副司令官が、14人います」



ーーーーーーーーーー…
ーーーーー…
ーーー…

「電源は……、よし、生きてるな」

全体的に酷い状態ではあったが、機能の損傷はほぼ見られず、動力面も無事だったため動かすことは可能なようだ。ある程度の修理は必要だが。

「あ…あの…ホント……ホントすみません…」
「いいよ、皆が生きてるのはお前のお陰だ。まぁ脱出機はもう飛べねぇし、此処から動かすのにも大分時間を食うけどな」
「あ…あと、"そういえば"もう一つ…、さっき背中叩かれた後、衝撃で耳がキンキンしてて聞き取れなかったんですが…『お前は良い部下じゃあない』って言われた後…何て言ったんですか?」
「………あぁ…、

『ブタ野郎』だって言ったんだよ」

聞くんじゃなかった、と燈は心中涙を飲んだ。

あの時本当は何て言ったのか聞いていたヴィルヘルムは、本当の事を言うべきか悩んだが、頃合いを見て教えてあげようと今は黙っていた。

「つーか、お前操縦出来んだろヴィルヘルム!何でお前が操縦しなかったんだよ!」
「すみません、操縦を変わってる暇が無かったもので。場所も悪かったですし」
「ったく…、まぁ幸い動力も通信機も無事だし、"蟲籠"も壊れてねぇ。車輪だけでも修理して、コイツで移動する他ないな」

通信機の無事を確認し、一先ず脱出機から降りて燈、アレックス、ヴィルヘルムに車輪を修理するように指示を出す。

「その右のタイヤは替えとけ。やり方は分かるな?分からなきゃヴィルヘルムに聞け」
「えぇ、大体」
「頼むぞ。警戒も怠るなよ」
「了解す…ミッシェルさんは?」

「着替えてくるよ。そこの岩陰で。火星まで来て風邪で死んだんじゃ笑えねぇからな。直ぐ戻る」

この時の燈とアレックスの表情を見て、ヴィルヘルムは「若いなぁ」と沁々していたが、相手を良く考えて早まらないでほしいとも思った。
修理を始めると、ミッシェルに言われた八恵子が岩場の前に張り付いた。覗き防止の為らしい。

「や…八恵子…!!頼む…!!せめてそっちを向かせてくれ…!!」
「なりません。班長命令です」
「くっ…!!恩を仇で返しおって…!!」
「めっちゃ姿勢良いですね八恵子ちゃん」
「ヴィルヘルムさんは興味ないんすか?」
「私はクラウディアさん一筋なので」
「「(ブレねぇ…)」」
「それにまだ死にたくありません」
「「(それはごもっともです)」」

とても爽やかな笑顔のヴィルヘルムに思わず揃って苦笑いを浮かべる二人だった。

「まぁクラウディアさんもちょっと恐いけど、美人っちゃ美人だよなぁ」
「俺はあんま顔良く見たことねぇけど。あの人訓練見てる時だって顔大体隠してんじゃん」
「そりゃお前多分、あれだよ、顔の火傷見られたくないとかそういうのだって。…アドルフさんも隠してるし」
「そういやそうだ」
「後、でかいよな」
「…でかいな」
「お二人とも?」
「「すみません何でもありません!!」」

爽やかな笑顔から一転し、圧力が増した笑顔を向けられ二人は顔を逸らした。

「それならばヤエコよ…5千…!出そう。帰ったら払う」
「なッ…!」
「フフ…ピッツァのバイキングに2回行けるよ?ランチなら3回」
「フ…フン…、それっぽっちで大和撫子(ヤマト・レディ)を買収出来るとーーー」

それでも涎は出て来る八恵子だった。

「八恵子ちゃん……5万だ」

桁が一個跳ね上がり、白目を向いて驚く八恵子。アレックスもその燈の出した額に驚いていた。

「ご…5万だと…!?」
「バカ野郎アレックスお前…ミッシェルさんだぞ!?新宿で投網すれば入りそうなギャルどもとは違う…モノホンのブロンドヘアーなのに…なのにだ…、ヘソにピアスついてねーんだぜ!?多分」
「新宿で投網の発想にちょっと笑いそうになったんですけど」
「あ、あれぇ〜?目にゴミが…」

結構簡単に買収された大和撫子(ヤマト・レディ)だった。
当のミッシェルは、ずぶ濡れになった服を搾りつつ、「ゴキブリめ…」と悪態を吐いていた。思い切り四人の会話は聴こえているようである。

「(しかし…まずい事になったな…何班(どこ)も…)」

どこもーーー通信に応えなかった。

「(やはり…ゴキブリと交戦中か?直ぐに第一班と合流しなければ…)」

何か……嫌な予感がする……
この火星で何かーーー ゴキブリとの戦争以外の…

それ以上の何かが起こっている様なーーー



ーーーーーーーーーー…
ーーーーー…
ーーー…

「一つの"仮説"を話そうか」

本多に出してもらったおつまみをポリポリと食べながら、ゼルクは口を開く。
「仮説?」と聞き返してくる本多に「そう仮説」と返し、食べていたおつまみを飲み込んだ。

「"仮説"…"その@"…"何故"、ほんの500年前まで六本脚の昆虫だったゴキブリが、突然二足歩行のソフトマッチョな原人みたいなのに進化したのかって話。
所謂、自然選択では、先ずそうはならないでしょ!絶対に。外見の狂いっぷりもさる事ながら、異常なまでの学習能力の高さと、そしてーーーやたら強い人間への攻撃性

明らかに人為的な変化が加わっている」

新しいおつまみを口に含み、笑う。酷く楽しそうに笑うこの男に、本多は冷や汗を流し、七星は怪訝そうに眉間にシワを寄せた。

「んで、こっからが『仮説@』。まぁ口に出さなくてもあんた等二人ならもう知ってる、もしくは勝手に感づいてるだろうけど、一応言うね。
U-NASA『バグズ2号計画』責任者、アレクサンドル・グスタフ・ニュートン曰くーーー

『テラフォーミング計画には』
『"先客"がいる』」


西暦2620年4月12日ーーー
『A・Eウィルスサンプル獲取』および『ゴキブリとの戦闘』開始より4時間が経過ーーー

『日米合同第二班』(班長ミッシェル・K・デイヴス)は、テラフォーマーを5匹捕獲(死者0名)
『ロシア北欧第三班』(班長シルヴェスター・アシモフ)は、3匹を捕獲(死者2名)

『第一班(日本)』と『第六班(ローマ)』がSOSを発信。
『第三班(ロシア)』と『第四班(中国)』と『第五班(ドイツ)』は通信機を使っていないーーー

ーーー地球からの救助艦到着まで、約39日 火星に、夜が来る

火星の自転周期は、およそ24時間40分。
偶然にも地球とほぼ同じ間隔で、昼とーーー夜が訪れる。

「夜には」「備えなければならない」

それが極々近代までの地球での鉄則。また、現代の戦争においては、連日連夜戦う兵士のケアも、重要な課題となっておりーーー
現に、20世紀末以降のアメリカ軍では、カウンセリング等に加え、睡眠治療剤の投薬も一般的となっている。
その点、彼らも手術で身体を強化されてはいるが、流石に40日間寝ずに戦えるほどのものではない…

本来ならば日が落ちる前に陣地を築き、夜営に徹するべきである。


「ーーー…あぁ、そうだ。頼むぞ」

第五班のアドルフとの通信が成功したミッシェルが、数分のやり取りをした後、通信を切った直後…ポツ…と、頭に水滴が落ちてきた。「マジかよ…」と、うんざり気に声を漏らす。

「もう動かせそうか!?」
「もうちょいです!後は前輪次第ですね」
「良し…それ以外の者は上にあがれ!ヤエコ!テープと断熱シート出しとけ!雨が降るぞ!!屋根を先に直す!燈!投げるぞ!受け取れ」
「ちょちょちょっ!!そんなモンテラフォーマーみたいに持ち上げないで下さいよ…!!」

テラフォーマーに外された屋根を軽々と片手で持ち上げ、投げようとしたミッシェルを慌てて止めた。
そうこうしている内に、少しずつ雨は強くなり、やがて土砂降りとなった。

ーーー火星のほぼ全域にかけて、実に1m〜数kmの深さの土壌が50%以上の水(氷)を含んでいるという事は、2000年代からγ線分光計によって明らかになってはきていた。
しかし、大気圧の低さ故に、水は液体・気体では殆んど存在出来ずに『水循環』が起こりにくい環境であった…。

それを解き放ったのが、極冠を中心に播いた『苔』と『ゴキブリ』である。

「火星の地表温度や大気圧が、地球程度にまで上昇するのに約200年くらいは掛かるでしょう」
「温度が上昇すれば、当然極冠や永久凍土の氷が溶けて、火星表面は水で覆われます。」
「雲が出来、」「雨が降り、」「川が流れて、湖や海が出来ます。」
「こうして、500年くらいかかって植物が繁殖して酸素や窒素が供給され、」
「地球と同じ様に温暖な空気と水を持った惑星に改造されます。」
(※『火星探検ー火星人から生命探査までー』より引用)

「……何とか間に合ったな」
「思いの外雨が強いですね…、結構地球と同じ様に降るものだ」
「行くぞ。速度は落とすが…第一班と合流する」

視界が悪いため、赤外線ゴーグルを掛けて脱出機のエンジンを稼働する。
問題なく走行を始めたため、何人かの乗組員は先に休ませる事にした。備品の毛布やまくらを取りだし、非戦闘員の乗組員やアレックスは早々に眠りにつく。
ミッシェル、燈、ヴィルヘルムの三人は、ゴーグルを掛けて周りを警戒しつつ見渡している。

「………遭いませんね、ゴキブリに…」
「あぁ…」
「結構距離走った筈ですが…さっきの勢いが失せましたね」
「あ…案外奴等夜は寝てんのかも…地球のゴキブリは夜行性ですけど」
「…だとしたら好ましい進化だがな」
「ていうか、そもそもアレに睡眠欲ってあるんですかね」
「…どうっすかね」

「(……だがもし……、そうじゃあないとしたら…!!)」

今までのが寧ろ、ヤツ等にとっての"夜襲"…いやーーー
全ての班が攻撃されたらしきところを見ると…"夜間偵察"程度だったとしたらーーー…

今になって私達以外のどこかの班が、
戦略的に攻撃されているかもしれない…!!

「(…考えすぎだと……良いのだがな……)」

頬を伝う冷や汗を拭い、脱出機を走らせる。不安な気持ちを圧し殺しながら。





ーーー27年の中で、はっきりと憶えている日が、
ーーー"2日"だけある


「……私ね、今まで生きてきて、今日が一番幸せ」

16の誕生日だ。美しい記憶だった。そして、もう…1日はーーー…




「ーーーアドルフ隊長ッッ!!!」



あいつと、クレアと、初めて会った
やっと、会えた



22の、冬だ






09:輪郭をなぞってね、消えないでね