世界は終わり/トレケイ
同棲してた二人が別れる話世界の終わりに朝が来てしまった。ケイトは雨が降りそうな空を見上げて、カーテンの隙間からため息をつく。緩やかに朽ちていったこの小さな世界が終わる今日の天気は、憂鬱そのものだ。まるで自分の心を映したよう。そんな詩的な言葉が浮かんで少し面白くなって、それを恋人に伝えようと振り向いて、やはり止める。これまでなら些細な思い付きや下らないことを彼にすぐに伝えていたのに。今日からはそれが出来なくなる事が、急に事実として浮かび上がってきた。ケイトの恋人のトレイは、今日この部屋を出て行く。
二人の出会いはありきたりだった。ハイスクールの入学式で、そこで初めてケイトが話しかけたのがトレイ・クローバーだった。アルファベット順に並んだ前後に二人は立っていて、長い入学式の途中に暇になったケイトが話しかけたのがトレイだった。振り返った少年の、眼鏡の奥の瞳が綺麗だった。真面目そうな彼はケイトを嫌がるかと思ったが小声のやり取りは意外と続いて、密やかな自己紹介は式が終わるまで続いた。見た目よりノリが良いヤツ。ケイトとトレイはそんな始まりから仲良くなり、いつの間にか一番の親友になり、自然と恋人になった。ありきたりな良くある話で、ありきたりな運命だった。
何が行けなかったのか。トレイの荷物が纏められた部屋を見てケイトは考える。学生時代は上手く行っていた。お互いに似通った課題や目標があり、基本的な生活サイクルは一緒だった。長い時間を二人で過ごしていても苦にならなず、その関係が心地よかった。何も言わなくても通じ合える、足りない所を補える、そんな関係と過ごして来た時間。その時間に甘えていたのだと今なら分かる。あの時は平気だったから、今だって大丈夫。子供の時はしなくても良かった歩み寄りが大人になってから必要になって、それに気付くのが遅かったのだ。そして気付いてからも、素直になれなかった。ケイトと、恐らくトレイも。
今のケイトはアルバイトをしながら音楽活動をしていて、トレイの進路は製菓メーカーへの就職だった。自由の多いケイトと、働き出したトレイ。価値観がすれ違うのは当たり前で、生活のサイクルも変わった。起きる時間、洗濯の間隔、買い物のリスト、寝る前のルーティン。寮生活では自然と寮内のルールや流れで整えられていたものを、二人で一から組み立てて擦り合わせて行かなければならなかったのに、二人はそれをしなかった。自分達なら大丈夫、言わなくても通じ合える。たかが四年間の、それもたった三年間の寮生活で、二人は何もかも分かり合えたつもりでいた。それが錯覚に過ぎないと気づくのには、一年もかからなかったのに。
自分が傷ついた分だけ相手にも傷ついて欲しかった。それが愛だと信じていた。今も、ケイトには違うと言い切れない。こんなに好きなのに、笑って欲しいのに、悲しくなんてなってほしく無いのに、相手が無傷なままが許せなかった。傷付いた分だけ傷付けて、それで何かが取り戻せる気がしていたのに。足りない二人が寄り添っていたって、足りない部分を奪い合う。終わってみれば二人が違う場所に違う形の傷跡を付けただけだった。
「もう出て行ってくれ……」
「…………分かった」
ケイトにとって「出て行け」という言葉は、別離や終幕と同じ意味だ。これが結論で、相手が決めたのならケイトは従う他には無い。掠れたトレイの残響が潜む部屋から逃げるようにケイトはドアを飛び出す。
もう終わり。さようなら愛した人。ここまで。この恋は終わり、お終い、バットエンド。二人は二度と会いませんでしたとさ!
昔読んだ絵本に似た台詞がケイトの頭の中をぐるぐると走り巡る。雨の中を歩く足はそのうちに走り出していて、息が切れて開きっぱなしの口を雨粒が溺れさせていく。永遠みたいな夜の中だった。
ケイトが終わりだと思った夜は、トレイにとってはまだ終わりじゃなかった。それを知ったのは、何もかもが取り戻せない程に終わってしまってから。ケイトは言葉が決定的で、トレイは行為が許せない。別れる理由が一番の擦れ違いで、最も価値観の違いが反映された。それはユーモアに富んだ辛辣さで、笑うしかないよね、とケイトは俯いた。
最後の荷物を持って出て行くトレイ。その靴を履く後姿でさえ愛しいのに、どうして今日で終わってしまうのだろう。もう足掻く事は出来ないのか。恋人同士では無くてもまだ二人で居たいのに、それすらも不可能になってしまった。
いつからやり直せば、まだ二人で居られたのか。いっそ二人にならなければ良かったのか。いつか別れるのなら、親友のままが良かった。ずっと二人でなくとも良い、トレイの人生の側にいたかった。ケイトには、今日で二人の世界が終わるのが理解できていない。だってまだ好きなのだから。
「やり直したいな」
ケイトは唐突にそう思う。出会う前にやり直して、振り向いたあの瞳に恋をする前に戻りたい。そして今度こそ、トレイの側で生きていけるように生きて行きたい。隣で無くても良い。それくらい、トレイと居るのが好きだった。それくらいケイトはトレイが好きなのに、今も好きなのに、トレイはケイトを置いて出て行く。
「やり直したいって……そりゃ、無理だろ」
「え?……あー、そだね。うん」
小さい声だったはずのケイトの思い付きは、トレイに届いてしまったようだった。理論的で結果重視の彼らしい返事だとケイトは思った。
「というか、どこからやり直すんだよ」
「んーと、はじめから?」
「始めからって、随分と長いな……」
靴紐をしっかり結んだトレイが立ち上がり、ケイトを振り返る。またあの瞳だ。ケイトは懐かしくなる。明るい色の、少し釣り目の、意地悪な本心を隠した優しい目で、トレイはケイトに微笑む。
「でも何度やり直したって、俺はお前を好きになるだろうけどな」
「……マジ?」
向き直ったトレイが言った言葉が飲み込めずに、ケイトは素で返事をしてしまう。大きな鞄を抱え直したトレイが声を上げて笑った。目が見えなくなる程挟まって、眉を歪めて笑う。ケイトの好きな笑い方だ。
「マジだ。だから意味ないし、と言うかそもそも無理だろ」
トレイの悪戯が成功した子供みたいな笑みに、ケイトも思わず笑ってしまう。笑ってから、もうだいぶ長い間笑っていなかったのを思い出した。久しぶりの、なんて事ない日常のなんて事無い会話。こういうやり取りが好きで、こういう所が好きなのだ。ケイトはトレイが好きなのだ。
「ハハ、そんなに高校生のオレは魅力的だったわけ?」
「そんな所だ。それに、お前だってそうだろ?」
「えー?」
どうだろうか。ケイトは考える。もし生まれ変わって、あの日に戻れたら。ケイトはあの背中に話しかけるだろうか。結末は分かっているのに、またあの少年に恋をするのだろうか。それとも、今度は失敗しないように付き合っていくのかもしれない。
「……どうかなあ?オレには分かんないよ」
一瞬で様々に巡り出したケイトの思考は、しかし結論はもやもやとしてはっきりしなかった。今この時も好きな人との出会いを、始めから無かった事にしてしまうなんて出来ないし、今この時の別れる想いを二度としたくないとも思ってしまう。
「そうか」
「そだね」
少しの沈黙の後に、トレイが「じゃあ、元気でな」と言って扉を開ける。振り向かないかな、とケイトが思った背中はそのまま歩き出して、ドアが閉まる。バタンと重い音がする。トレイに怒られるから、すぐ鍵閉めなきゃ。習慣になったお見送りの動作をなぞるケイトの耳に、ガチャンという音が聞こえる。トレイがドアの鍵を閉めた音だ。すぐにドアポストに小さい金属音が響く。トレイが鍵をポストに入れたのだと、すぐに分かった。
いつもなら、トレイが出て行ったすぐ後にケイトが鍵を閉めて、その音を確認してからトレイが歩き出す。そんな小さな、二人が決めた数少ない約束事。トレイがそれを破った事なんて一度も無かった。なかったのに。
「……っふ、っう、トレイ……ああッ、」
恋人との別れはどんなに辛いものなのかと、想像し覚悟していた。それでも心が散り散りになって、その破片に貫かれるような痛みだった。自分の心を映したような空なんて馬鹿な話だ。ケイトの心を映すなら、視界もけぶるくらいのどしゃ降りの雨でなくてはならない。ケイトの声も涙もかき消して、トレイをこの部屋に足止めしてくれるような、そんな酷い雨でなくては。
過去は決して戻らないし、二度とやり直せないし、トレイはケイトを振り返らない。そんな事を、ドアが閉まってからやっとケイトは理解した。
もう無理だと分かっているのに、別れたばかりのトレイにケイトはもう会いたい。ついさっき曖昧に終わらせたトレイとの会話に、本当はケイトは答えを出していた。
何度でも生まれ変わって、あの日のトレイに会いに行くよ。どんな結末が待っていても構わない。それくらい好きで、それはきっとトレイくんも同じ気持ちでしょ?
口にするのが怖かった。どんなに神さまにお願いしても、決して聞き届けられないのが痛かった。こんな事になったのに、悲しいくらいに心は変わらない。それが愛しくて仕方ない。
あの日まで戻れたとしたら、もう絶対に傷付けないと誓うのに。そしたらきっと、あの男の子はケイトに振り返って、そして目を細めて微笑んでくれるのに。
ケイトは膝が崩れるままに座り込んで、涙に濡れる手で胸を握りしめる。二人の小さな世界は、ケイトの手のひらの中で死んでしまった。
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