ふるいまほう



 オレがナマエについて知っていること。

 名前と、学校と、住んでいる町。
 寝相の良さ、つむじの巻き方、それからほんの少しの口癖。

 誰かについてこんなに深く知ったことってあっただろうか。
 充分すぎるくらい知っていると思っていたし、実際、それで充分だった。
 周りに言わせれば、もっと知るべきなのは好きな食べ物とか音楽とか映画とか、それから、リングのサイズなんだってさ。
 ああ、確かに。そこまでは気が回らなかったなぁ。いつも彼女の表情を追うのに夢中すぎて。






 弁護士になるんだと言ったオレを、ナマエは手を叩いて笑った。
 手を叩いてと言っても、それはからかっているワケじゃなく、「すっごーい」と感心している様子だ。

「わあ、ほーすけ君、あたし応援するよ。すごいすごい」

「まだなってないから凄くないよ」

「でもこれからなるんでしょう?」

「なるために、頑張ろうとしてるとこ」

「大丈夫、大丈夫、」

 それからというもの、ナマエはことあるごとに呪文のように大丈夫、と言うようになった。
 他にボキャブラリィがなかったのだろう。
 でも、変な言葉で激励されるよりずっと説得力があるしシンプルで彼女らしくていい。
 大丈夫?と疑問系でないところが特に好きだ。

 でも、ある日なんとなく気付く。
 彼女は大丈夫、大丈夫、とまるで自分に言い聞かせるみたいに言っていた。
 言葉とは裏腹に、何がそんなに心配なのだろうと考えたけど、思い当たることはなかった。
 どんな意味があったとしてもその呪文は、いつも優しくて、俺の胸のあたりに纏わりついてくれたから。
 その呪文が耳の中に響いているだけで、どこに居てもいつも一緒にいるみたいだった。








 弁護士として有名な先生のもとで働くことが決まって、ああ、もう、あの呪文は聞けなくなるかなぁという予感が急によぎる。

 どうしてだろう。怖い。
 雪が降りそうな空。

「ナマエ。仕事が順調にいって、も少し余裕ができたらさ、」

「うん?」

「一緒に住もうか」

 黙る。
 大きく目を見開く。
 小さく息を吐く。白い息を。
 (あ、これはマズイ)
 それからぽろぽろと涙をこぼす。

「……ほーすけ、君…」

「よくわからないから聞くけど、嬉しくて泣いてる?困ってる?」

 オレは肩をすくめて笑うしかできなかった。





ナマエは姿を消した。

 彼女がオレの部屋に置きっぱなしにしていた雑誌やカーディガンを眺める。
 いつまで置いていていいものだろうか。
 彼女の身体を拭いたバスタオル。こぼしたコーヒーの染み。

 いつまで。

 考えてもわからないや。
 オレは彼女のことを充分すぎるくらい知っていたはずなのに、どこに消えたかはわからなかった。
 いや、単に探そうとしなかっただけ。
 なんだか可哀想だと思ったから。

 すごく愛してたから。

 好きな食べ物とか音楽とか映画とか、そんなものにはたいした意味なんて無いのに。
 でも次にもし逢えたなら、オレは間違いなくそれを君に聞くだろうな。
 それから、そう、リングのサイズもついでに聞いたっていい。

 涙がこぼれる。

 彼女が教えてくれた笑い方で無理矢理笑顔を作ってみたけど、息が苦しくてすぐやめてしまった。










 初めての法廷に立つ。
 発声練習のせいで声がカスれたうえに裏返ってとても聞き取りづらい、と先生に言われた。
 とんでもない心拍数だったけど、オレにはナマエが残したあの呪文があった。
 精神安定剤。
 どうしたって纏わりついて離れようとしない、あの呪文。

 それは古い、魔法の言葉。



「大丈夫、です…!」



 そうだ。いつも君は自分に言い聞かせていたね。
 こんな気持ちだったのかな。

 大丈夫。
 オレはこうして立っているよ。

 君のカーディガンちゃんと畳んでおくし、バスタオルだって特別に柔軟剤使って洗っといてやる。
 ねぇ、いつでも帰っておいで。
 一緒に住もう。

 大丈夫。

 大丈夫。




 (言い聞かせてる、だけだけど)






SHORT
式日