15


 兄を失ってからの十年余りを、彼は振り返る。
 バンジークスは話しながら時々落ち着かない様子で窓の外を見たが、つむぎは彼の碧く透き通る瞳から目を逸らすことが出来なかった。広い教室ではとてもよく響いていた低い声が、この狭い部屋では煙のように浮かんで、霞み、耳元にまとわりついた。


 真実も正義も見えてこない、途方もなく絶望的な日々だったこと。
 誰かの望む役割を演じなければいけなかったこと。
 死神を演じることが自分の存在意義になっていたこと。
 誰かの思惑に、何度も飲み込まれてしまいそうになったこと。


 彼の語る言葉は小難しくやや抽象的で、つむぎがしっかりと英語を聞き取ることができたのはおおよそ半分程度だった。それなのに何故だか不思議と、伝えんとすることが彼女にはよく理解できた。周囲の望む自分を演じなければならない日々を、彼女もまさに兄の死以降体感している。似たような悩みを背負った者同士だからこそ、言葉を越えて通じるものがあったのかもしれない。

「―今は苦しくとも。心の底にある信念を大切に。貴女の目の前にある多くの可能性を検証してみることだ。貴女の兄君もきっとそう思っているだろう」

 こんな私でも、そうして再び光を見ることが出来たのだから。─そう結ぶ言葉に、つむぎの視界がぼんやりと滲んだ。彼はきっと控え目な言葉を選んで語ったのだろうが、その十年が想像を絶するものだということが痛いほど伝わってくる。そして、他の誰でもない、自分に向けられる心遣いも。
 亜双義が抱き締めても、成歩堂が微笑みかけても、決して届かなかった心の底へ彼の言葉が降ってくるのだ。
 バンジークスは彼女の目尻に浮かぶ、今にも零れ落ちそうな滴を拭いたいと思ったが、また安易に触れるなと亜双義にたしなめられそうな気がして膝の上でぐっと握りこぶしを作った。亜双義はというと、所在なさげに壁に掛かった絵を見つめている。双方の事情を詳しく知っている彼こそ、泣きたいような気持だった。早くに席を外して、二人きりにすればよかったと悔やんだ。そうすればつむぎは素直に涙を零せたのだろうし、バンジークスはそれを拭うことができたのだから。







 検事らと別れた後も、彼女は不思議な高揚と戸惑いの中にいた。

 頬が熱い。
 また熱が出たのだろうか。
 大学の講義などに忍び込んだから、また知恵熱?
 つむぎは心のなかで自問していた。
 ―そうじゃない、ということは解っている。

  今、彼女の頬を、胸を、熱くしているのは。

「―もし。落としましたよ、しおり」

 不意に背後から掛けられた声に、びくりと肩を震わせて反射的に振り向いた。手にしていた本から落ちたらしい、ちりめんのしおり。それを持って朗らかに微笑んでいるのは、彼女のよく知る人物だった。

「りゅ、うのすけ、さん―!」

 思わず名を口にしてしまう。しんと静まり返っている室内に自分の声が響き、は、と彼女が口元を押さえたのは随分と遅れてからで、名を呼ばれた人物は少し困ったように小首を傾げた。はて、目の前の学生とは面識かあっただろうかと。─そう、つむぎはまだ帝都勇盟大学の学生服姿であった。

「はて、どこかで…」

 成歩堂は学生帽を目深にかぶったその顔を、無作法にまじまじと覗きこんだ。相手は自分を知っているようだったし、まさか女性だと気付いていなかったからだ。
 他意の無い、無垢な黒い瞳がずい、と近づく。吐息がかかるのではと思う程の距離で、つむぎは堪らず帽子を脱いだ。

「わっ、私です、龍ノ介さん…!」

 帽子の中にまとめていた髪がばさりと崩れ、その面影にようやく心当たりを見つけた彼は声を呑み込んで驚いた。大きく声を挙げてしまいそうなところだったが、彼らがたまたま居合わせた場所は帝都勇盟大学の図書館であった。大声を出すわけにはいかない。
 書架の間の狭い通路だが、成歩堂は念のためぐるりと見回して人目が無いかを確かめた。

「つむぎさん、な、何をなさっているのですこんなところで。というか、そんなお姿で」

 当然の疑問だった。所属学生以外出入りのできない図書館に、男子学生に扮した女性がいるのだから。
 彼はこの距離で、帽子を取ってようやく目の前の学生服の正体に気付いたわけだが、その事実に彼女は少しだけがっかりした。
 バンジークス検事は気付いたのに、と。
 そう。逆を考えてみれば、よくぞバンジークスは教壇から教室の最後列の彼女に気付いたものだと言える。恐らく、成歩堂が抜群に鈍感というわけではないのだ。

「本日は此方の講義にお邪魔しておりました。英国語のよい勉強になりますので」

「それは何というか…すごく熱心なことですね」

「一真さんは呆れていましたけどね」

 でしょうね、と成歩堂は笑った。親友の呆れ顔ならば見慣れている。容易に思い浮かべることができた。

「龍ノ介さんは、お仕事で此方へ?」

「ええ。今扱っている事件で毒草が証拠に挙がっていて、其れを調べようと。…この辺りが確か植物関係の書架だったかと思うのですが」

「まあ、毒草。この本に載っていますかしら」

 つむぎは手に何冊か重ねて持っていた本の中から、一番厚みのある植物図鑑を彼に手渡した。 ぱらぱらと頁を捲ってどうやら目当ての毒草の項を見つけたらしい彼は、至極真剣な眼差しと低い声でこれだ、と呟いた。

「あ…。つむぎさん、この本を借りられるのですよね」

「どうぞ、龍ノ介さんがお借りになって。私は他にもいくつか見繕ってますので」

 にこりと笑って、そう言いながら腕に抱えた本を見せた。確かに、いずれも植物に関する専門の書籍である。ちなみに当然の如く、亜双義一真の名を拝借して借りる手筈だ。

「ではお言葉に甘えて。つむぎさんは何かお調べなのですか?」

「香り袋を作るのにお花を探しているのですが。お花屋さんや市場にも、どうもこれと思い当たる香りのものが無くて。やっぱり珍しい洋花なのかしら…」

 成歩堂の前で呟いてみたところで花のことなど彼にわかるはずもなく、「洋花ということならバンジークス検事に聞いてみては」と思いつくままに宣った。本当に、彼には他意は全く無いのだ。しかしつむぎの胸はどくん、とその名にはっきりと反応を示した。目の前の成歩堂の存在よりも、 その人の名前に。

「…つむぎさん?」

「え。あ、あぁ、そうですね。英国の方ならおわかりになるかしら」

 大きく瞬きを数回して、そう返事はしたものの、バンジークスには既に以前に香り袋のことを尋ねている。解らないという返答だった。さすがにしつこく何度も訊くわけにもいかず、こうして本などを手に取っている次第だ。講義のついでに図書館へ立ち寄ったが、さすが帝都勇盟大学の図書館、そこいらの貸本屋とは比べ物にならない蔵書だった。
 ―香り袋を自分で作れるだろうか。
 彼女がそう思ったのは、あの香りを忘れたくないと思ったから。優しく、穏やかで、目だって華やかというわけではないけれども、確かに存在感のある高貴な香り。
 まるでバンジークスを形容しているような。
 現物は貰ったけれど、香りというものは永久に残らない。薄れゆき、いつしか消えてしまうものだ。
 それを忘れたくないと思うのは、きっと。バンジークスに対しても同じ気持ちだからであると、彼女自身はっきりと気付いていた。
 つむぎは急に、目の前にいる成歩堂に対して妙に後ろめたい気持ちになった。恋慕っていた人物の前で、別の人物のことを忘れがたいと考えているのだ。成歩堂の黒く暖かみのある眼差しも、明るい微笑みも、落ち着いた声色も、大きな手やぴんとした背筋も。すべて、今だっていとおしいと思うのに。新しい感情の不思議なまでの熱を否定できない。

「それにしてもつむぎさんは何事にも熱心で頭が下がります」

 そう言いながら、成歩堂はとても自然に彼女の抱えた荷物と本を持った。英国紳士さながらの所作である。彼が以前からそういうことをする男だったのか、大英帝国で学んだものなのか、寿沙都と一緒にいて身に付いたものなのか。つむぎにはそれが解らなかった。誰かに理解してほしいと強く願っているのに、反面、自分は他人を深く理解しようとしていなかったのではないか。あまりに一方的で、幼い恋だったのではないか。にわかにそんな思いが込み上げた。

「熱心などでは…。自分の移り気を、はずかしく思うばかりで」

「貴女が移り気?」

「…自分に対して肯定的なものにばかり、惹かれてしまうのですわ」

 謙遜ではなく、彼女の今の正直な気持ちだった。自分を理解し、深く共感を示してくれたバンジークスに心が向かおうとしている。それは非常に甘ったれた浮気心とも受け取れるのではないだろうか。
 物憂げに溜め息を落とす彼女を見て、成歩堂はしかしそれとは真反対の笑いをこぼした。

「至極当然のこと。それを移り気と言うなら、世界中の殆どの人がそうですよ。…けれども。それを恥じるというのが、貴女の一途さなのかも知れませんね」

 移り気と一途とでは矛盾している。けれど成歩堂にそう言われると、そういうものなのかも知れないという気になるのは何故だろうか、とつむぎは彼の持つ不可思議な言葉の力を羨ましく思った。






 丁度同じ頃、バンジークスは亜双義にひとつの用事を頼んでいた。英国のある人物へ、国際電信を打電してきてほしいという頼みだった。なるべく早くという注文付きで。普段は憎まれ口の多い従者だが、頼まれた事には実に迅速に正確に応える。その指示を了解すると、彼はすぐに大学の校舎を発った。
 急ぎ足で大学をあとにする亜双義の後ろ姿を、バンジークスはぼんやりと窓越しに見ていた。すると、別の建物からやはり門の方へ向かう二つの人影がある。知っている顔。二人の男子生徒のように見えるが、学帽を被った片方が女性であることはとうに承知だった。ほんの一時間ほど前まで同席していた彼女─。一緒に歩いているのはどうやら成歩堂龍ノ介である。どこかで居合わせ、何か談笑を交わしながら帰って行くところなのだろう。
 落ちてきた夕陽がちょうど筋のように射し込んで、彼女の頬を赤く染めるように照らしていた。その様を見るに、バンジークスは何処か胸の奥がむず痒くかるような息苦しさを感じてカーテンを引いた。






式日