亜双義は、つむぎに対しては色々な意味で申し訳無いことをしたと常々思っている。彼女の抱えている苦しみの何割かは自分のせいで生じたものだとさえ考えていた。
 一つは、こだまの後継ぎ問題。家族を失ったことに加え、意気揚々と通っていた学校を辞めることになってしまった。家庭の都合で致し方ないこととはいえ、泣き暮れていた彼女にもっと親身に寄り添っていればよかったかも知れない。だが、自分自身の人生の目的を果たすべく、遠い大英帝国のことで彼の頭はいっぱいだった。
 二つ目は、成歩堂龍ノ介のことだ。
 友人と彼女を引き合わせたのは、深く考えてのことではなかった。牛鍋もよいが一度本格的な高級料理を食ってみろ、と連れていったのが幼なじみのいる料亭こだまだった。兄を失い店の後継ぎの件で辛い想いをしていたつむぎには、成歩堂の明るさ、素直さ、前向きさが眩しくて、すべてが魅力的に見えたのだろう。しかも彼はつむぎの手製の太巻きを食べたときに、「料亭の懐石よりも僕はこちらのほうが好きだなあ!」とあっけらかんと宣ったのだ。自分の存在価値を認めてくれる人物に出逢った彼女は、驚く程あっさりと恋に落ちていた。それは微笑ましい出来事だったし、彼女の心が癒され、救われることを亜双義は願った。
 それなのに、だ。
 彼女から恋を奪ったのもまた、亜双義だった。
 英国への留学に友人を同行させたばかりか、彼を御琴羽寿沙都と引き合わせてしまった。これまた誤算であったが、二人は弁護士の職務を通じて強く惹かれ合うこととなった。ロンドンから帰国した成歩堂の傍らにいつも支えになっている寿沙都を見て、つむぎの心がぼろぼろに砕けたのは想像に難くない。

 彼女がどういうわけで急に英国語の勉強を再開したのかわからないが、成歩堂か寿沙都のことで何かあったのでは、とそんな予感がしていた。今の彼女の心を乱す、一番大きな存在なのだから。

「つむぎさん。何かあったのでしょう」

「……」

「貴女はすぐそうしてだんまりだ」

「…だって一真さん、貴方すぐ自分を責めるじゃないの。貴方こそ悪い癖だわ」

 つむぎの淡々とした、けれど鋭い物言いに亜双義はたじろいだ。実際、彼が彼女の傷をよく知っているのと同様に、彼女は彼女で亜双義が自分に対して後ろめたく思っていることをよく解っていた。

「貴女がオレを責めないからだ…憎んでいるだろう。貴女はオレを責める権利がある」

 くだらない口喧嘩を吹っ掛けるのはいつものことだったけど、彼女が成歩堂のこと―自身の失恋のことで亜双義を心から責めたことは一度も無かった。亜双義にしてみれば、後ろめたさにずっとさらされているくらいなら、責められたほうがよっぽど気が楽だというのに。
 唇を噛む、どこか子供じみた彼の仕草がつむぎの目には懐かしかった。恋とは別の種類のいとおしさに包まれる。少しの沈黙をおいて、どちらともなく自然と手を伸ばした二人は抱擁していた。―そうだ、懐かしい。あの日も同じようにしていたなと二人の脳裏に同時に幼い頃のことが蘇った。
 亜双義の父が異国の地から帰れなくなったと聞いたあの日。一晩中、泣くまいと唇を噛み締めていた亜双義を、つむぎがひたすらに抱き締めていた。幼すぎて、他に慰め方を知らなかったのだ。あの頃から二人は変わらない。互いが大切だけれど、どうしてあげればいいのか解らない。そして、痛みを共有してしまうが故に相談相手には向かないのだった。
 亜双義は彼女の首筋のおしろいの香りを吸った。女の香りだ。当然、身体つきだってすっかり大人の女性のものだと今さらながらに気付く。
 つむぎは亜双義の背中に回した指先から、ごつごつした背骨や引き締まった筋肉の感触を知る。
 不思議だった。肉体的に成長しても、距離感はずっと子供の頃のままなのだから。こんな風に抱擁していたって、決して色めいた関係にはなり得ない二人。
 まだ分別もつかない年の頃に、彼らを許嫁にという話が亜双義家と糸賀家の間に浮上したことがあるが、当の本人たちが口を揃えて「嫌だ」「姉弟なのにおかしい」と拒否を示した為に話は絶ち消えた。本当の姉弟と思い込んでいたのだ。
 自分たちが男女の仲になることを選んでいれば、辛い想いをさなかったのではないだろうかと亜双義は時々考えたけれど、そんなもしもの話は無意味なだけである。
 力になれることが余りに少ないと自分を責め、彼は彼女の悪態を甘んじて受け入れることにした。いくらでも罵詈雑言を浴びせられて構わない。それで少しでも彼女の気持ちが晴れるなら、と。

「いつも、ごめんなさい」

「何を謝る」

「何をって、うまく言えないけど…。いつも怒ってばかりいること、とか」

「……」

「昨日から考えているの。自分の人生がうまくいかないことを、貴方や他の誰かを責めるつもりもないし、嘆いているだけでもいけない。…それより、諦めるばっかりじゃなくて、もう少し自分の為になること考えてみようかな、って。そう思って」

 つむぎがそう呟くのを、亜双義は肩の辺りで受け止めていた。表情は見えないけれど笑っているのがわかる。それはきっと接客用の笑顔ではなくて、幼い頃に見ていたあの穏やかな笑顔だろうと思った。

「それで英国語の勉強を?」

「ええ。あなたたちくらい流暢に話せたら、いつか広い世界を見たり、何か一つくらいは夢を叶えられるかも知れないでしょう。何にしろ、仕事以外のことにもう一度目を向けてみたいのです」

 彼女に前を向かせるきっかけを作ったのがバンジークス卿だということを亜双義は知らなかったが、自分が彼女の為になし得なかったこと、何か小さなきっかけを与えた者が存在するのだと直感的に感じた。

 二人はゆっくりと身体を離し、そしてつむぎは朝陽の照る窓の外へ目をやった。庭と、こだまの店舗の屋根が見える。こんな小さな世界に閉じ籠って泣いているから、いつまで経っても心が鬱々としているのだと、不思議と今は客観的にそう思うことが出来た。

「一真さん。ひとつお願いを聞いて頂けますか」

 外を見たまま、彼女はそう言った。











「―お断りする」

 バロック・バンジークス卿は、考える隙もなかったのではと思えるくらい即座にそう答えた。そう言うであろうな、と予見していた彼の従者は溜め息を落として腕組みをした。

 糸賀つむぎに英国語をご教授頂けないでしょうか。

 亜双義はそう願い出たのである。彼女から仰せつかった願い事である。是非バンジークスに英国語を教えてもらいたいと彼女は言うのだ。

「彼女は…事情があって女学校を辞めざるを得なかったのです。それからは独学で学んでいたようですが、改めて、確かな方のもとで学びたいと」

「立派な心掛けである。しかし昔なじみの貴公やナルホドーが教えればよかろう」

「オレもそう提案したのですけどね。馴れ合うのが嫌なんだとか」

「そもそも私は暇ではない。この国に滞在中、予定が密に詰まっていることは貴公も知っての通り」

「ええ、それは勿論―。ですから、英国語で手紙のやり取りをして頂けないかとのことです」

「手紙…?」

「彼女が貴方に手紙を書くので返事を書いてやって貰えませんか。それだけなら、それほど時間はかからないでしょう」

 バンジークスも腕を組み、考える仕草を見せた。
 近頃、あらゆる事情で就学できない者の為に通信教育とやらいう仕組みが学校機関に導入されていると聞くが、手紙を通して英国語を学びたいというその提案は、それに似た考えだと彼は理解した。しかし彼は決して教師ではない。彼女に心理療法をもちかけた後の、ドクターでも無いのに余計なことをしたという何とも言えない不安感がよぎった。やはりこれ以上無責任な振る舞いは出来ない。断るべきだ、と結論付けて亜双義にそう伝えようとした―。

「ちなみに」

 断りの言葉を阻むように、先に亜双義が口を開いた。

「当然ですが無償でお願いする訳にいきませんので、報酬の提案がありました」

「報酬だと?」

 にわかに胡散臭い言葉が飛び出し、バンジークスは露骨に顔をしかめた。金銭の授受が発生するというなら、尚更断りたいと思った。あのように精神の弱ったいたいけな女性から金を受けとるなどと、まるで極悪人の所業ではないのかと。
 そんなバンジークスの懸念はよそに亜双義は、まるで破格の報酬だと言わんばかりの不気味に不敵な笑みを浮かべた。

「いつでも好きな時につむぎさんの手料理をご馳走してくれるとのこと」

 その一言で、かつて死神と恐れられた検事の思考はすっかりフトマキとオイナリさんによる侵略を許していた。

「……」

「……」

「……」

「ご快諾ありがとうございます」

 快諾をしたつもりは無い。無いのだが、一瞬沈黙してしまったことで、再度断る契機を完全に逸してしまっていた。





式日