01*夕神迅と彼女の出会い
七年ぶりに手錠を外され、自由の身となって数週間。
俺は検事局へと足を踏み入れた。
そこで初めて口をきいたのは、ある女。
検事局の指定された一室で待つようにとあらかじめ指示があった。検事局長の旦那の計らいで、 ご丁寧に検事局に俺の居場所をあつらえることになったらしい。
今まで牢屋で囚人検事をやっていたこの俺が、ようやくあるべき場所で検事の職務に就けるというわけだ。
しかしあるべき場所、という割には、些か落ち着かない。
その理由は解っている。
刑務所にいた月日があまりに長すぎたこの俺には、太陽光をたっぷり取り込む大きな窓も、それに付随している薄いブルーのカーテンも、天井に付いた蛍光灯も、ワックスの掛けられたタイルの床も、その部屋を成すすべてが眩しすぎた。
そう、あまりに、まぶしい。
居心地は最悪だった。
こんな場所が果たして自分の居場所なのだろうかと戸惑う心持ちで、椅子に掛ける気にすらなれなかった。
呆然と立ち尽くすなか、初めてこの部屋へ俺を訪ねてきたのが、その女だった。
肩に居たギンがふと顔を挙げ、くぅ、と喉を鳴らす。
ドアの外にある、この部屋に近づいてくる人の気配を俺に知らせたのだ。
数秒後にこつんこつんと遠慮がちなノックが響いて、来訪者は姿を見せた。
「失礼します。夕神検事、ですね?」
「......」
「ゆうがみ...、じん、検事ですよね。 お名前、読み方間違っていますか?」
返事もやらずに只じっと女の顔を見ていた俺に、女は少し疑念を持ったように、手元に抱えた書類に目を遣り、そこに書かれているらしいこの俺夕神迅の名を確認した。
栗色のまるい瞳で、俺の顔と書類上の文字列とをもう一往復半、交互に見る。
「......へっ、」
思わず俺が鼻先で笑うと、女は眉をひそめて口を尖らせた。
「何ですか」
「いやな、お前さん、俺の顔と名前の文字を照らし合わせて、それで本当に本人かどうかわかったかい」
「わかりません。お返事を頂けないので」
「あァそうだろうな」
女は眉間のシワをさらに深くする。 俺がからかうような問答をしたせいで、どうやら少しヘソを曲げてしまったらしい。
女性の知り合いは多くないが、女という生き物は皆こうも面倒なタチなのか、と考えるだけで辟易する。
「おい、そこでヘソを曲げるのは筋違いってもんだぜ。悪いのはそっちだ。
人の名を訊くならまずてめぇから名乗るもんだ」
声色を普段よりもさらに低くして凄むと、女は一呼吸おいて眉間にこめた力を弛め、そして怯えるような表情を見せる訳でもなく、むしろ凛々しいとさえ言える顔つきで真っ直ぐ俺を見た。
「...大変失礼しました。おっしゃる通りです」
この俺が凄めば大抵の相手は腰が引けて言葉を失うのだから、女のその切り替えは些か意外だった。
表情、声色、言葉そのものの素直さ。
思わずこちらの息が一瞬だけ詰まる。
「総務の秋野そら子と申します」
「...夕神迅だ。読み方は間違ってねぇぜ」
「では、改めて宜しくお願いしますね。夕神検事。事務上の諸々のご説明をさせて頂きに参りました」
よいしょ、と言いながら、抱えていた 書類の束と、その下に重ねた段ボール箱をデスクに乗せる。
ずっしりと重そうだった。早く降ろしてしまいたかったろうな、と女 ―秋野そら子、と名乗った―の細腕を見ながら思う。
段ボールをやや乱暴な所作で開けると、中に覗いていたのはボールペンやファイル、手帳、コピー用紙、ノートパソコンといったごくありふれた事務用品の類。
「必要最低限の備品をまず揃えさせて頂きました。
足りない場合や、要望の品があれば事務室にご発注ください。何でも...と言うわけにはいきませんが、」
今度は書類の束から、これまたよいしょ、と呟きながら薄手の冊子を。
よいしょ、は口癖なのだろう。
歳頃にも顔にも似合わないが。
冊子をパラパラと捲りながら女は言葉を続けた。
「このカタログに載っているものならばすぐにご用意できます。
載っていないものをご要望の場合はご相談ください。卸し業者に問い合わせますので。
自前で購入したものでも領収書があれば経費請求できますが、職務上必要と認められない場合には経費は下りませんのでご了承下さい。
経費請求、と申しましたが、捜査等の職務に発生する交通費や食事代にも適用されます。ばかになりませんので、 領収書はきちんと保管された方がよろしいかと。
それから...」
「もういい、充分だ」
正直なところ、自分に興味のない事柄に関しては聞いていてもちっとも頭に入ってこない。
余計な情報は必要としない。何より聞くのが面倒でもあった。
面倒くせぇ、というのが表情に滲み出ただろうか。言葉を遮られた女は、ふ、と短くため息を漏らした。
「よかったです。私も正直、面倒なので。
総務に関係することはこちらの手引きにまとめておいたので、暇なときにでも見ておいてください」
にこりと微笑みを添えて差し出されたファイルを反射的に受け取った。
ごく当たり前、ごく自然に。
瞬間、
指先に電流が走る。
思わずどちらともなく手を強ばらせたため、所在を無くしたファイルがばさりと大袈裟な音を立てて床に落ちた。
目と目が合う。
すぐ、反らす。
「あ...静電気、ですね」
「......あァ、」
違う。
静電気なんか起きていない。
それはもっと単純な事象。
只単に、その瞬間、
俺たちの指先が触れあった。
それだけ。
女性の―それも、姉貴やココネのような身内以外の―肌に触れたのが、あまりに久しく、電流にも似た刺激だった。
ひどく動揺している自分が情けなくなる。
女に飢えているのか?自分はそんなに低俗な人間だったか?
七年も塀の中にいた。そのことが、自分をこんな風にしてしまったのか?
意識し出すと、自分の耳のあたりが熱くなるのをにわかに感じて、思わず女に背を向けた。
指先の感触だけじゃない。
その声色、血色の良い頬、揺れる髪、仄かな香り。
突如として、それらすべてが襲いかかるように俺に向けて存在をはっきりと主張し出していた。
とても真正面から向かい合うことなど、できなくなるほどに。
女は落ちたファイルを拾い上げ、デスクに置いた。
「夕神...さん?あの、何か今すぐ必要な物があれば伺いますが」
「......黒い布、だ」
「布?」
「あの窓を覆う黒い布は無ェか。眩しくて仕様がない」
そうだ、こんな慣れない場所にいるからおかしくなっている。
自分の縄張りに、自分のペースに、少しでも戻さなけりゃいけない。
そうすればきっと冷静になれるはずだ。
「電気ももっとこう...薄暗いので充分だ。それから...、」
「黒いカーテンに、電球の取り変えですね......」
俺の言葉をさかさかと素早くメモに拾い上げていく。
随分手慣れている。他の検事からもあれこれと注文があるのだろう。
先程事故的に触れたその指先が、踊るようにペンを操る。
こいつは仕事ができる。
女の言動はそれを如実に示していた。
「床材を変える、なんてできるかい」
「できます。ただし、夕神さんの自費になります。
一部の検事さんたちはご自分の趣味で内装を変えていらっしゃいます。
高級カーペットを敷き詰めたり、楽器を置くキャビネットを作り付けたり、 過去にはバスケットゴールを設置した方もいたとか。皆さん自費でなさってます」
なるほど、カーテンや電球程度ならば備品扱いで用意できるが、度を越えた注文は自腹というわけだ。
床や壁を石造りか打ちっぱなしのコンクリートにしたいと思ったが、相当の費用になるだろう。
刑務所から出たばかりの俺にそれが払えるわけもないのは明白だった。しかし、やはりこのままのこの部屋に耐えられそうな気もしない。
「何とかならねェか。立て替えとか、 給与天引きとかでも構わねェが」
「事務処理上、それはちょっと...監査がキビシくて」
チッ、と俺が舌打ちをするのとほぼ同時に、「一つだけ、」と言葉を続ける。
「一つだけ...イレギュラーな方法はありますけど」
「それは?」
「局長にお願いするんです」
「局長ってぇと、まさか、」
「御剣検事局長に、お金を貸してくださいと言うことです」
「な......馬鹿か、お前ェ。そんなこと通るわけが...」
「それが意外と通ります」
女はにやり、と不適に笑う。
ふざけているわけではなく、ある種の確信がそこに見られる。
「私から言ってみましょう。あの方と私は仲良しなので、大丈夫ですよ」
検事局長の旦那にはさすがに俺も一目置いている。
あの歳で局長に上り詰めたその事実だけで、すでに伝説的な存在だ。
検事の中にも警察官の中にもあの人物に易々と金を借りるなどとのたまえる者はいるはずがなかった。
ましてや、たかが事務職の若い女。
―あの検事局長と仲良し、だって?
「お前さん、一体何者だ」
「総務の秋野そら子と申します」
女は先程と全く同じ自己紹介を繰り返して、それから、「どうぞ宜しくお願いします」と付け加えた。
式日