02*牙琉響也と彼女の日常



「牙琉検事。…サインを、いただけますか」


 彼女はその憂いを帯びた瞳を伏し目がちにそう呟いた。
 僕はいついかなるときもレディ達のその要望に応えられるようにとポケットに忍ばせている油性マーカーペンを取り出し、差し出された紙の真ん中に自らのサインとトレードマークのアルファベットGを書く。
 我ながら書き慣れたもので、それはほんの一秒の出来事。

「牙琉さん…」

 か細い声でそう名を呼んだ彼女は僕のサインに手を震わせ、心なしか目元も潤んでいるように見えた。

「ああ、いいよ、お礼なんて」

「……そうじゃなくて!受領伝票のど真ん中にサインしないでくださいっ!!毎度毎度同じやりとりさせないで!!!!」

 署名はココだって何度言えばわかるんですか!と彼女は伝票のすみっこの四角い枠を指差した。
 ご丁寧に、指し示された欄には"受領印"と書かれている。
 事務室に注文した備品の伝票で、事務処理上、注文者が受領の押印か自筆サインをすることになっている。
 まぁ勿論僕にだって、そんなことはよくわかっているのだけど。
 ハハハ、と笑うと、彼女は心底呆れたと言う表情で溜め息を吐いた。

「そら子クンを困らすのがボクの日課だもの」

 そうだ。
 他の連中の前ではどこかそっけなく、職務上無駄なこともせず淡々と振る舞うキミが、そうして声を荒げる。
 それが僕にはとても愛らしく見えたし、キミの人柄をもっと魅力的にしているなんて、自分自身で気付いていないのだろうな。
 勿体無い。
 否、それでいい。
 他の連中に彼女という人間を今より魅力的に見せることは僕としては避けたいのだから。

「このやり取りいい加減うんざりです。伝票書き直さないといけないし。シャチハタくらい用意してください」

「え、やだよシャチハタなんてカッコ悪い。だいたい"牙琉"って既製品売ってないんだ」

「…もういいです。私、勝手にシャチハタ注文して作ります。それで勝手に押印します。
そしたらわざわざこの部屋に来る必要ないですから」

 ちょっと待てそれは無しだ、と思ったが、彼女がこの執務室に来ないというならばこちらから事務室に赴くまで。
 僕は余裕の態度を崩さぬよう、にっこり微笑みかけた。

 嫌がらせではない。
 歪んだ愛情でもない。
 僕の気持ちは極めて真っ直ぐ、秋野そら子へと向かっている。









 あれは一年ほど前だったか、例の事件で、僕は最も信頼を寄せていた相棒を失うこととなった。
 マスコミも面白がって騒ぎ立てたし、精神状態は随分荒んで、周囲に当たり散らしてばかりいたように思う。
 あの頃僕の執務室には誰も近寄らなかった。
 彼女以外は。


 無機質な電話の音。
 携帯ではない。執務室に設置された内線電話だ。
 全く出る気がしなかったのに、習慣とは恐ろしいもので、導かれるように無意識に右手が受話器を掴んでいた。

「総務です。牙琉検事、月末ですので伝票処理を…」

「伝票?なに?」

「……」

 僕の不機嫌な声色を察したのだろうか、電話の向こうの女性が黙った。
 相手に悪いという気はしたけれど、心も身体も脳みそも全てが重く、うまく働いてくれない。
 この時ほど人と関わることが心底煩わしく、つらかったことはない。
 息が苦しい。
 泣きたい。
 僕はそのまま受話器を置いてしまった。
 デスクに額をくっつけると、ひんやりとしていて気持ちよかった。


 それから数分、いや、数十分?どれくらいの時間そうして突っ伏してしたのか記憶がはっきりしない。
 ただドアのノックの音が僕の額をデスクから無情にも引き剥がす。
 そこには女の子が立っていた。
 年の頃は自分と同じくらいだろうか。

「牙琉検事」

 一言発したその声色で、ああ、先程の電話の相手だ、と知る。
 随分でっかい荷物を抱えていたが、表情には重たそうな様子は微塵も見せていない。

「伝票と、決裁の書類と、頼まれていた備品お持ちしました」

「伝票って何のことだかわかんないし、備品を頼んだ記憶も無いんだけど」

 本当だ。
 何をしに彼女がわざわざ姿を現したのか、僕にはわからない。
 ちっとも心当たりが無かったのだ。
 彼女の眉間がきゅ、と狭くなる。

「当然ですね。今まですべて、眉月刑事がされていたのですから」

 不意に発せられた人物の名は僕の心をぐちゃぐちゃとかき混ぜ、嘔吐感が襲う。

「……キミは、一体誰なのかな?ダイアンが何だって?」

「総務の、秋野です。牙琉検事にも以前ご挨拶させていただいたことはあるのですが…」

「そう…だっけ、」

「牙琉さんの事務処理のほとんどは、眉月刑事がされていました。
 なので今、未処理の伝票や書類が溜まってしまっているのです」

 そこまで聞いて、ようやく話が呑める。
 ダイアンが例の事件で捕まってしまったのだから、それらを片付けるのは僕自身でやらなければいけないということだ。
 思えば事務処理の作業なんて一度たりとも自分でした覚えが無い。

  書類出しておいた
  領収書、預かるぜ
  月末はめんどくせーんだよなぁ

 彼がよくボヤいていたいくつかの台詞が脳裏をよぎる。
 いつも僕はそれをふうん、と聞き過ごしていて、結局のところ彼が何をどう処理してくれていたのか全く理解していなかった。
 そうだ
 あいつが、…ダイアンが居ない。
 総務の女の子がこうして僕の目の前に立っている理由は、簡潔に言うとそういうことだった。

「秋野クン、だっけ。総務の。ちょうどよかった。教えて欲しいんだ、書類の書き方を」

「…何の、書類ですか」

「辞表」

 退職願いってやつ?
 決して泣き顔にならないように笑ってみせたけど、おそらくその笑顔はぐしゃりと歪んでいただろう。
 あの御剣検事が過去に一度だけ、辞職しようとしたという話を誰かから聞いたことがあった。
 その時、辞表を見て、パートナーの刑事が血相を変えてあれこれと立ち回ったのだという。
 でも僕にはもう、そうして立ち回ってくれるパートナーも居ない。


「……眉月刑事は、」

 彼女はぽつりと口を開いた。

「いつもぶつくさと文句を言いながら事務室に来て事務手続きをされてました。"めんどくせぇ"って」

「そうだろうね、目に浮かぶ」

「私が"牙琉さん自身にさせればいい"と言うと、彼はこう言ったんです」

 "あいつは検事の仕事だけしてりゃいーのさ。
 他に出来ることといったら歌うことと女を口説くことくらいだ。
 他に何にも出来やしねぇんだから、
 あいつにとって検事ってのは或る意味天職なんだろうな。
 ああ見えて真面目なやつなんだよ、本当に。
 仕事に専念させてやりてぇから、こういう面倒なのはオレの役回りでいいんだ。"

 彼女の放つ言葉が、ダイアンの声で再生されて聞こえるみたいだった。

 頬が濡れる。
 生温い涙が、握り締めた拳に落ちる。



「ねぇ、キミは僕を泣かせに来たの?」

「違いますよ。……辞表の書き方を教えに来たわけでもありませんし、」

 彼女は、持ってきていた伝票と書類の山にぽん、と手を乗せて、そして微笑んだ。
 聖書に手を乗せて説法をする聖人のように。

「さあ、こいつらをやっつけちゃいましょう。今日は残業にお付き合いしますよ」

 その笑顔に、僕は一瞬にして救われていた。
 手を差し伸べる人は、居るのだと。








 それは僕が彼女に好意を寄せるに至った、あくまでもきっかけ、理由のほんの一端だ。
 顔を見るたび、言葉を交わすたび、彼女は僕にとって特別な人になっていく。
 だからついつい、少しでも構いたいが故、おちょくってしまうこともしばしばあるのだけど。

「わかった、こうしよう。
ハンコは必ず用意するから、そら子クンのメアド教えて」

「jimushitsu@kenjikyoku.…」

「それ事務室の公用アドレスじゃんか!」

「はい、セクハラメールが来ても証拠が残りやすくて良いかと」

 僕と彼女の攻防は、まだまだ続くようだ。




式日