05*神乃木荘龍と彼女の愛
この店には常連客が何人かいる。
ランチタイムの終わりに煙草の代わりにコーヒーをたしなむサラリーマン。
一杯のブレンドで何時間も居座って参考書を広げている浪人生。
幼稚園の子供を迎えに行く前、ほかの母親連中とは決して群れずにここへカフェラテを飲みにくる主婦。
それから、すぐ近くにある検事局に勤めている仔猫ちゃん。
彼女は俺がここに店を開いた頃からの古株の常連で、週に一・二回、いつも仕事が終わったあとにここへ立ち寄って、小一時間ほどコーヒーと俺とのお喋りを楽しんでいってくれるお客だ。
いつもの時間。カラン、とドアベルの乾いた音が狭い店内に響き、彼女が入ってきた。
他の客たちのように店内を見回して座る席を選ぶようなことはしない。彼女の場所はいつだってカウンターの一番端だった。
もし、運悪くその席に先客が居たときだけは、逆端に座ることにしていた。
「こんばんはマスター」
「よぉ仔猫ちゃん、最近足が遠のいていないかい?」
「忙しいんです。局長が代わってから...検事さんたちの士気が高まっているのは良いんですが、残業が多くて」
「疲れているときは」
「ミルクたっぷりのカフェラテ」
まるで合言葉みたいなそのやり取りが俺たちのおヤクソクだ。
今でこそこんな風に軽快な会話を交わせるほど親しくなったが、出会った頃の彼女は、オーダーを告げる以外は一切口をきかず、はりつめた表情をしていることが多かった。
コーヒーを啜り、黙々と古い推理小説を読みふける。
"構うな、話し掛けるな"というオーラを放っている客はよくいたし、そういう客に対しては俺もその要望に沿って、コーヒーを提供して金を受け取るだけの最低限のやり取りに徹した。
こちら側からは客との距離を壊さない。それが店主としてのマナーだと思っていたし、俺のルールだった。
しかしある日、そのルールを俺自身で破ることとなってしまった。
彼女はうっかり、職場のIDカードをネックストラップにぶら下げたまま店へ来たのだ。
秋野そら子という名前と、検事局のロゴマークが刻印されているそのカード。
それを見て検事局の人間だと初めて知った俺は、思わずこちらから話し掛けてしまっていた。
「お嬢さん、アンタ、検事かい?」
彼女は豆鉄砲を喰らったように目を丸く見開いてから、は、と自分の首から下がったままのそいつに気付いてすぐに鞄へとしまった。
恥ずかしいと感じたのだろう、にわかに頬を染めながら。
「違います。事務をやっています」
「事務官?」
「いえ、総務の...事務室に勤務しています」
「そうかい。...いや悪い、昔検事をやってたもんでつい、な」
「...!そう、なのですか」
「ゴドーって名を古株の検事にでも訊いてみな。少しは覚えてる奴等もいるだろうぜ」
「...検事を辞められて、このお店を?」
「あぁ、まぁ...色々あったんだがな。元弁護士で元検事で今はコーヒー屋のマスターだ。可笑しいだろ」
自嘲を込めてにやりと笑って見せると、逆に彼女はきりりと表情を真顔に戻し、「いえ、大変興味深いです」と言った。
よく話すようになったのはそれからだ。
他に客が居るときは今までそうしていたように最低限の距離感を以て接したが、彼女以外の客が居ないときだけという約束で、俺は昔話をした。
彼女は両手で包み込むようにマグカップを持って、そして冒険活劇でも聞く少年のようにじっとその昔話に耳を傾けていた。
「検事さんだった頃のお話をしてください」
時折、彼女のほうからそうしたリクエストがあった。
新人弁護士の頃の話、凶悪な殺人犯の話、好きだった女の話、色々と話したが、検事時代の話はあまりしなかった。
当然だ。検事だった期間があまりに短かったのだから、話せることが少なすぎた。
「それはもうすっかり話しちまったよ、仔猫ちゃん。
前にも言ったがな、俺が検事だったのはほんの少しの間なんだぜ」
「うーん...」
「それよりも、そろそろアンタの話を聞かせてもらう約束だ」
「私にはお話しできるようなことが何もないんですよ。しがない事務のOLだし」
「恋の話のひとつやふたつあるだろう?」
あったらいいんですけどね、と彼女は曖昧に目を伏せて言ったので、それ以上は追求しない。
深追いをしたら彼女は恐らく不快に思うだろう。
引き際。距離の置き方。
誰に教えられたわけでもなく、それを巧くやる術は身についていた。
それはまるで法廷での駆引きのようだった。
最近よく思うようになったのは、彼女、秋野そら子が綾里千尋によく似ているということだ。
顔とか服装とかそういった部分ではなく、性格―いや、"性質"がよく似ていると感じた。
仕事バカなところ、
真面目なところ、
頑張りすぎるところ、
誰かの為に自分を犠牲にしてしまうところ。
自分が護ってやれなかった女を嫌でも思い出す。
その姿を重ねるたびに、目の前にいる彼女のことも、千尋と同じように愛しく想った。
そのやりきれない感情は、恋というよりは、愛。
「なあ仔猫ちゃん。チヒロより先にアンタに出逢っていたら、アンタを誰より愛しただろうぜ」
「...私も同じようなことを考えていました、マスター」
視線をマグカップの中の闇に落としたまま、そう呟いた。
彼女にも俺と同じように、忘れ得ぬ男がいるのだろうか。
そんな風に彼女が自分の想いを滲ますようなことを言うのは珍しく、それだけに切な想いだろうと推測できる。
「そりゃあ奇遇だな。キスでもしてみようか」
「駄目です。好きになってしまうかも」
「クッ...、よく言うぜ、アンタはそんなに簡単に人を好きになる女じゃないだろう?」
「わかりません。でも、好きになるのは簡単だと思います。とても簡単。
なのに、嫌いになったり忘れたりするのはどうしてムズカシイんでしょうね?納得いきません...」
彼女の言うことは痛いほど共感できた。
人を好きになるとき、時間や理由やキッカケなどの一切を必要としないことがある。
ただその人が目の前に存在するだけで世界が違って見える。そんなことが確かにある。
そしてそういう恋ほど厄介なことに、終わりがまったく見えてこないのだ。
千尋は死んでしまった。
俺は生きている。
想いも、生きている。
殺す方法すらわからない。
「私に好かれたら面倒ですよ、マスター」
じっと伏せていた視線をぱっと上げて、ワントーン明るい声で、微笑みながら彼女は言った。
「あぁ...」
わかってるさ。
いや、今わかったよ。
アンタは俺にそっくりだ、仔猫ちゃん。
千尋より誰よりこの俺に。
自分なんてどうでもいいと思えるくらい、相手に心酔してしまうタイプの面倒な人間だ。
似た者同士の、悲しい二人。
だから俺はこんなにもアンタに幸せになってほしい。
「いつか恋が実ったら、その憎い男を俺に見せに来い。必ずだ」
「そうですね...それにはひとつ大きな問題が」
「何だい」
「"その人"は、紅茶派です」
その時図らずも彼女は秘めた人物について初めて口にした。
紅茶派なのだと、たった一言。
彼女は自分では気付いていないだろう。
そのたった一言を発する瞬間の気持ちの緩みが、彼女に、これまで見せたこともないようなやわらかな表情をさせていた。
そら子。幸せになれ。
アンタの幸せが、俺の幸せだ。
式日