07* 事 務 室 の 彼 女



 あの日、主を失ってしまったその部屋は廃墟のように熱も光も消えてしまった。
 私はそこにある物たちをひとつひとつ見渡した。
 整理された書棚も、美しくドレープをたゆませたカーテンも、磨かれたデスクも、額縁の中のジャケットも、特注のチェスボードも変わらずにそこにある。
 なのに。
 あの人が居ない。
 それだけで部屋はすっかり生気を失ってしまったようだった。
 立ち尽くした私もまた、それらと同化したように生気を失っていただろうか。

「わっ、ビックリした!なんスかアンタは!お化けかと思ったッス」

 お化け。
 言い得て妙だった。

「糸鋸刑事」

「あ、なんだ。アンタッスか。事務室の」

「御剣さんの執務室...掃除をしようかと。
 資料ファイルや装飾品はそのまま置いておくと仰っていたので、時々ホコリを払っておかなければと思ったので」

 嘘では無いが、拙い口実だった。
 この部屋の空気を、香りを、ほんの少しでも吸い込めれば自分の活力の糧になるかも知れない。
 そう思ってこの部屋に踏み入れたのに、得られた結果はまったく逆で、ただただあの人が遠くへ行ってしまった事実を鮮明にするだけだった。

「いいッスよ、自分がやるから。
 あの人は大事なものを他人に触らせないッスから、余計なことすると怒られちゃうッスよ」

 糸鋸刑事はいつもの人懐っこい笑顔でそう言った。
 彼なりに気を遣ってくれたことは重々承知だというのに、「他人」という言葉が暴力的に私の胸を抉っていた。
 御剣さんが私の気持ちを受け入れてくれたあの日からの二週間。
 そう、あの夢みたいな出来事は最初から期限付きの魔法だったに違いない。
 ふわふわとした二週間という時が過ぎ、魔法は解け、私たちは「他人」に戻ってしまったのだ。


 いけない。

 泣いて、しまう。


「では、糸鋸刑事にお任せします」

「承知したッス!」

 私は装ったギリギリの平静さで口角に笑みを浮かべ、糸鋸刑事に一礼して踵を返した。
 これでいい。
 確かに、この部屋のことは彼に任せるのが一番だ。
 私が下手に足を踏み入れては、喪失感に埋もれるだけのことだから。

「...ん!」

 ドアノブに手を掛けたところで背後で刑事がくぐもった声をあげたので、思わず半身振り返って彼のほうを見た。
 その手に、見覚えのあるレンズ。華奢なシルバーのフレームに収まっている。

「あったあった、これッス。こーんな引き出しの奥にあったから忘れていっちゃったッスね。」

 どうやらそれを探しに、彼はここへ訪れたらしい。

「...御剣検事の眼鏡ですね...デスクワークで使っていた」

 私が何気なくそう言うと、糸鋸刑事ははっと目を大きく見開き、物凄い形相とスピードでこちらへと歩み寄ったと思うと、大きな手のひらでガシッと私の両肩を掴んだ。
 あまりの迫力に思わず自分らしくもない、「きゃっ」という可愛らしい声を挙げてしまった。

「アンタぁッ!!」

「っ、はい!?」

「よく知ってるッスねぇ、御剣検事の眼鏡のこと」

「え...?」

「御剣検事は確かにデスクワークのときだけこの眼鏡をしているッスが、なかなかその姿にはお目にかかれないッスよ。
 アンタさては......ストーカーッスね!!」

「違いますし、糸鋸刑事に言われたくありません...」

 言われて見れば、御剣検事の眼鏡姿は確かに執務室の外では見られない。
 私は職務上この執務室へしばしば訪れていてその折に見る機会があったが、そうでなければあの人が眼鏡を使うことを知っている人物は、この刑事くらいなのだろう。

「ははははは!冗談ッス。
 でもアンタかなりの御剣検事マニアとお見受けしたッス」

 ストーカーに、マニア。大して代わり映えはしない。
 どちらにしても友人や恋人という風には映っていないということは、よく分かった。
 私は糸鋸刑事のそのあんまりな表現に、他人と言われたショックもなんだか薄れてしまって、逆に可笑しささえ感じはじめていた。
 この人のこういうところが憎めないし、きっと御剣さんもそう思いながら彼という部下を側に置いていたのだろう。

「...それ、御剣さんの忘れ物ですか?」

 アメリカへの長期出張で、身の周りの必要なものは一通り荷物にまとめて持っていったはずだった。もちろん、その眼鏡も必要だっただろうに。

「そうッス。電話がかかってきて、この眼鏡があるかどうか確認しておいてと言われたッス。
 ま、あのヒトも人間だからオッチョコチョイなところもあるッスよ」

「では、空輸で送ってあげるんですね」

「いや。あったら捨てていいと言われたッス。
 手っ取り早く新しい眼鏡をアメリカで買ったらしいッスから。さすがお金持ちッスねー。自分だったら考えられないッス」

「捨てるん...ですか...」

 ぎゅ、と心臓が軋むのがわかる。
 またひとつあの人の存在が遠くなる。そう感じて。

「えーと眼鏡は何ゴミで出せばいいッスかね。フレームは金属、レンズはガラスで...」

「あ、の。私が捨てておきましょうか!」

 反射的にそう申し出ていた。
 眼鏡は不燃ゴミ。知っているのに、彼に告げることはせず。
 ずる賢さの回転がこれほど早いなんて、自分自身でも今初めて知った。
 ただその彼の私物が、命が通っているかのように美しく繊細に造られたものが、他の無機質なプラスチックや金属片たちといっしょくたにされて集積されるなどということは、想像したくもなかった。

「お、それは助かるッス。自分、いまいちゴミの分別が分からなくて」

 ははは、と刑事は眉尻を下げて笑い、ガシガシと荒っぽく頭を掻いた。

「それじゃ頼んだッスよ、」

 はい、と右手を差し出す。
 しかし、そこに眼鏡は手渡されなかった。
 代わりに刑事の腕がふわ、と私の眼前を覆いふさぐように動いたかと思うと、次の瞬間、視界が突然ぐにゃりと歪んだ。
 耳と、眉間のあたりに馴れない感触がある。

「おっ、アンタなかなか眼鏡が似合うッス」

 糸鋸刑事はあろうことか、その眼鏡を私に直接掛けさせたのだ。

「.........」

 数秒間かけて、ぐにゃりぐにゃりと蠢いていた視界はようやく焦点を捉えた。
 視力がさして悪くはない私には明らかに度数が合っていなかったが、何故だろう。見えている世界が真新しい、失っていた熱や光を伴ったかのように鮮明に飛び込んできた。
 フレームが肌に触れている部分に、どくん、と血流が活発になるのを感じる。


 ここは確かにあの人が―御剣怜侍が存在している世界だ。
 彼も同じ世界を見ていたはずだ。
 この、いま私が着けている、同じレンズを通して。
 私たちは確かにいま、何かを共有したのだ。


 言葉に言い尽くせない曖昧な感傷のなかで、もう、こらえきれなかった。


 感情があふれる。


 わかっていた。死んでいなかった、私の感情は、一度たりとも死んだことなんてなかった。




「...っあ、アンタ?どうしたッス?」

「......っ、...っ、」

「ななな何で泣くッス!?いじわるした訳じゃないッスよ、ちょっとしたオチャメッスゥゥ!!」

 糸鋸刑事の的外れな弁明が響いたが、それに答えることもできず、涙と嗚咽があふれていた。
 彼と別れたその瞬間さえ、泣かなかったのに。
 ずっと我慢していた。
 人並みに、悲しかったし、寂しかった。
 でも、言えなかった。
 あの人の邪魔になるくらいなら、自分が傷付くことなどよほど易いものだったから。
 それであの人が喜ぶ訳でもないのに。
 ただただ、一方的な自己犠牲。






 数年して、御剣検事はこの検事局へと戻ってきた。
 肩書きこそ変わったが、あの人の美しい立ち姿、透き通る肌、低く張りのある声、煌めく髪、悲しげで冷ややかで、それなのに優しい眼差し。それらは全て、変わらなかった。
 私が好きになった、あの人のまま。
 だから私だって、この想いは変えようがないのだ。
 ただ、もう、魔法にかけられるような馬鹿な夢を見るのはやめようと思った。
 想いを告げなくていい。
 届かなくていい。
 触れられなくていい。
 こうして同じ世界の空気を吸って、邪魔にはならぬようそっと側に居る。
 それだけで、いい。



 私は御剣検事を真似てまっすぐに背を伸ばして立ち、張りのある声で話すようにした。
 気持ちが引き締まる。

「おはようございます」

「おはよう、そら子君」

 互いににっこりと微笑んだ。
 私たちの関係はずっと停滞したままなのに、あの頃より心はずっと穏やかだった。

「頼みがあるのだが、万年筆のインクを手配してもらえるだろうか。
 新しく買ったものが、どうもペンとの相性が悪くてね。メーカーの純正インクがなかなか売っていないので困っているのだが」

「はい。お調べしてみますね」

「うム、すまないが」

 私はできるだけ背を丸めないように丁寧に一礼した。
 そして失礼いたします、と言おうとしたところで、一瞬早く御剣検事の声が「そら子君、」と私の名前を呼んだ。
 その声が切なげに響いたのは私の都合のよい思い過ごしだろうか。

「...いや、何でもない」

 彼は口ごもり、そして感情を曖昧にするように眉間にシワを寄せて表情を歪めた。
 私は彼が掻き消した言葉を探ったり追及したりすることはしない。
 おそらくこの先もこうして、私たちは平行線上に立ったまま、それぞれに進むのだろう。


 そう、おそらくは。


 いたずらな魔法使いがやってきて、今度は彼のほうに、悪い魔法をかけていかない限りは。




式日