「あれ、あんなところにもコスモス」

オンボロ寮の居室で、風呂上がりのまだ生乾きの髪をそのままに、窓を開けて遠くを眺めていた彼女が呟く。開いた窓からは、静かに降る秋雨が屋根を打つ音が流れ込んで来る。
季節は秋に移り変わり、俺たちは学年をひとつ上げた。入学式も終わり、新入生も多く入ってきたものの、オンボロ寮は相変わらず彼女とグリムのふたりのまま。
今夜はそんなオンボロ寮で過ごす日で、彼女の膝の上ではグリムがスヤスヤと寝息を立てている。あと半年、そんなわずかな時間でいなくなってしまう彼女と、グリムだってもっと一緒に過ごしたいだろう。その貴重な時間を奪っている罪悪感と、それだけ彼女をまかされているという矜持。それらが心の中で入り混じる。

「コスモスって私の国で秋の桜って書くんです」

遠くを見遣っていた視線をグリムに戻して、その毛並みを撫でながら彼女がそっと微笑む。
彼女の向こうに漠然とそびえ立つ暗い闇。重い雨雲が月を覆い隠した今夜は、いつもよりずっと夜の闇が濃い。急に、彼女が夜に呑み込まれてしまうような気がして怖くなる。何も見えない暗闇から、こうして彼女を繋ぎとめているのは、この部屋の人工的な明かりだけ。

「次の桜の季節まであと半年かぁ」

冷たい秋の風が吹き込む。
少し前までは茹だるような暑さが続いていたのに、今ではもうどこか遠い出来事のようだ。風はただ無慈悲に、これからやってくる寒く凍てつくような冬の気配を運んで来る。
もう、本当にあと少しで、彼女は消えてしまうのだ。一生抱きしめるつもりでいた腕の中から、どうしてそんなにも簡単にすり抜けていくのだろう。

「私がいなくなっても、グリム大丈夫かな。オンボロ寮の生徒、ひとりだけになっちゃうのに」
「……グリムだって最近じゃ、随分と成長したじゃないか」
「それは分かってるんですけど、過保護なのかも。もし何かあったら、助けてあげてくださいね」

天使か聖母じみた慈しみの言葉。堪えていた何かが、弾けたように感情が抑え切れなくなる。

「他人の心配ばかりして、君は、随分と平気そうなんだな」

だけど、頭の中のどこか冷静な部分もちゃんと働いていて、グリムを起こさないように配慮し押し殺した声を出す。本当は、感情のままに叫んでしまいたかったのに。
自分のことを助けてくれとも請えない彼女から、助けてあげてなんて聞きたくなかった。
助けてくれと言われたところで、何も出来ない俺が無力なのだと知りながら、そんなもの全部もう覚悟したのだと諦めたように笑う彼女を、受け入れたくなかった。

「私の世界にCOSMOSって曲があるんです。合唱曲で、昔歌ったことがあるんですけど、それがとっても好きなんです」

慰めのような響きを孕んだ彼女の声に、ハッと我に返る。
困ったように微笑んで、また遠い空を眺めた彼女をたった今、自分の言葉で傷つけたのだ。もう戻らない時間が、じんわりと切り傷の後に滲み出す血みたいに流れ出て、謝る言葉を堰き止めた。
それでも、そんなこと気にしていないとでもいうように彼女はとめどなく言葉を紡ぐ。

「あ、花じゃなくて宇宙の方。コスモスって美しいって意味なんですって。花も宇宙も、同じように美しいんだなって、嬉しかった」

深淵を覗くような視線の先、彼女にはこの雲の向こうの宇宙が見えているのだろうか。
すうっと息を吸い込んだ彼女の唇から、俺の知らない歌が生み出される。心地よい彼女の歌声。

──君の温もりは 宇宙が燃えていた
──遠い時代のなごり 君は宇宙

機嫌がいいとき、彼女はすぐに歌い始める。そんな歌声に、上手いものだなと笑ったいつかの俺の声。そうでしょうと得意げに笑う彼女。もう思い出にしかなれない走馬灯。
目の前でか弱く脆く、だけど確かに存在する彼女の歌声は、静かに降りしきる雨の音に溶けて、今までで一番愛しく、同じくらいに悲しかった。

「私たちはね、永遠になるんだと思うんです」
「永遠?」

歌い終わった彼女が、グリムをそっと抱き上げて立ち上がる。
夜の闇を背にした窓辺から、一歩ずつ継ぎ接ぎだらけのソファに近づき、そっとそこにグリムを寝かせた。
そんな彼女の動作を、ただ何も言えないままじっと見守る。

「ジャミル先輩の記憶の中での私は、ずっとこの少女のまま。そして、私にとってのジャミル先輩も」

その先の言葉を一瞬言い淀んで、だけど何か重い枷を掛けるように、じっと俺を見つめる。その薄い唇が、微かに震えて、それでも紡ぎ出される声は咎のように鋭く鮮明。

「元の世界での私は、どんどん年を重ねて、大学か専門学校に行って、仕事について、それから新しい恋人が出来て、結婚もするかも」

それ以上聞きたくないと思いながら、聞かなくてはならないことも分かっている。
もう俺たちが出会うことはなかろうと、彼女はこれから先も生きていかなくてはいけない。その中で、俺だけを愛していてくれなんて言えるはずがなければ、望みたくもなかった。ちゃんと幸せでいてくれ、多くのものから愛されていてくれ。孤独だなんて、絶対に思わないでくれ。
そう伝えたいはずの言葉は、微塵も声にならなくて、初めてこんなにも自分が臆病なのだと思い知らされる。

「それでも、そんな私をジャミル先輩は知らない。それでいて、ジャミル先輩だって同じように大人になっていくのに、少女のままの私を抱えて生きる」

目の前にいる彼女を、抱きしめてもいいのか戸惑う俺の腕の中に、彼女の方から飛び込んで来る。慣れ親しんだ小さな身体。こんな小さな背中に、一体どれだけのものを背負っていこうとしているのか。

「そんな恋なんです。傍にいれない代わりに、互いの存在に溶け合って、ずっと一緒」






(秋、コスモスが揺れた)








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