ダッ、ダッ、ダッ。
突然降り出した雨が窓に打ち付ける音だけが教室の中に響く。空には黒く重苦しい雲が垂れ込めて、世界は急に暗さを増す。
授業が終わり、まだ少し残っていたクラスメイトたちは「やばい、バイトあるのに」とか「電車止まんないよね」と口々に言いながら慌てて帰って行った。

(……烏丸くん)

だから今、この教室に残されているのは私と烏丸くんだけ。
窓際、一番後ろの席から外を眺めているフリをしながら、横目で烏丸くんを盗み見る。
真ん中の列、前から三番目。普段なら多くのクラスメイトによって遮られて見えないその位置が、烏丸くんの席。同じように窓の外を眺めている烏丸くんは、まだ私が残っていることに気づいているのだろうか。

「このまま止まないのかな」

理性が制止するのも聞かずに勝手に滑り落ちた言葉は、私の声が本当に烏丸くんに届くのかを確かめたかったからかもしれない。
烏丸くんがこちらを見た気配を感じて、自然と体がこわばる。

「傘、ないのか?」
「ううん、あるんだけど」

帰るのが、もったいなくて。
消え入るようにそう呟いてから、何を言ってるのだろうと我に返った。もう少し雨足が落ち着いてからとか、もっと上手い返しはあったはずなのに、どうしてこんなことを言ってしまったんだろう。こんなにも降り注ぐ雨を前にもったいないだなんて、変なやつだと思われたんじゃないだろうか。

「烏丸くんこそ、帰らなくていいの?」
「今日は特に予定は無いから」
「……そっか」

烏丸くんはいつもバイトだったり、ボーダーの防衛任務だとかで慌ただしく帰っていくのに珍しい。でも、せっかく予定もなく早く帰れる日に限ってこんな雨なんて、少し可哀想かもしれない。

それでも雨はまだ降り続ける。
雨によって隔絶された世界では、私は私でしかなくて、烏丸くんは烏丸くんでしかない。烏丸くんがボーダーであることも、クラスの女の子の大半が彼を好きなことも、今この瞬間は関係ない。だって、世界には私と烏丸くんしかいないんだから。

だけど、この雨が止んだら、またすべては元通り。私と烏丸くんはクラスメイト以上の接点はなく、そんな教室の中でも必要がなければ関わることも無い、グラフの中の端と端の点のような存在に戻る。
だからやっぱり、今帰るのはもったいない。

「みょうじ」
「え?……今、烏丸くんが私の名前呼んだ?」
「呼んだけど、そんなに驚くか?」

思考を遮るように響いた声に驚いて顔を上げると、烏丸くんは私のことを見ていて、心臓が跳ねるように鼓動を大きくする。

「烏丸くんが私の名前、知ってると思わなくて」
「知ってるだろ。同じクラスなんだから」
「そう、なんだけど……ほら、課題集めたり、日直の仕事だったり、そういうときしか私たち話したことないから」

私の言葉に、烏丸くんの瞳が柔らかく細められたのがやけにゆっくりと見える。もしかしたら、この雨で時間が流れるスピードまで変わってしまったんじゃないだろうか。

「俺はずっと、もっと話したいって見てた」

その瞬間、雨の音も心臓の鼓動も、世界から音が消えて、ただ烏丸くんの声だけが、何に邪魔されることもなく私の鼓膜を揺らした。

「休み時間、みょうじが友達と話してると何を話してるんだろとか、俺の前でも、もっと笑ってくれたらいいのにとか、次の席替え、近くになればいいって思ってた」

夢かと思うような言葉の数々に唇が震えて、それでも声だけはちゃんと音になった。

「私たち、なんでかいつも席が遠いもんね」
「……え?」
「私も、同じこと思ってたよ。せめて烏丸くんのことが見える席だったらいいのにとか、ボーダーの仕事で烏丸くんがいない日は怪我しないといいなとか……」

緊張で視界が揺らぐ。こんな、私なんかが思うだけでもおこがましいようなことを口にして、それを烏丸くんが聞いてる。だけど、烏丸くんも同じようなことを思ってた。それって、それって──。

「そっち、行ってもいいか?」

返事を聞くことなく烏丸くんは立ち上がってこっちに向かってくる。いつもならクラスメイトによって遮られている私たちの距離は、本当はこんなに近かったのか。

「いいな、この席」

私の前の男子生徒の席に座った烏丸くんが私を見ている。真剣なまなざしは、刺すように私をとらえて離さない。

「振り返るだけでみょうじが見える」
「……凄く自意識過剰なこと言うみたいだけど、烏丸くんは、もしかして」
「ああ、みょうじが好きだ」

それ以上私が言うのを制するように被せられた言葉に、肺からはすうっと吸ったのか吐いたのか分からない呼吸が漏れた。

「だって、なんで、急に……」
「今言わないと、もう届かない気がしたから」

雨は止まない。世界はまだ二人きり。私たちを引き離す多くのものは、ぜんぶ、ぜんぶ、雨が流していってしまった。だから、烏丸くんの声は届くし、私の声も届く。
そして、遠く交わることはない点と点だった私たちの間に線は結ばれた。

「私も、好きだよ」
「……ああ」

雨は止まない。だけど、遠い空の向こうに太陽の気配を感じる。だから、あと数十分もすればこの雨もすっかり消えてしまうのだろう。
だけどもう、かまわない。雨上がりの雲間から差し込む日差しの下で、私と烏丸くんは結局出番のなかった傘を片手に、しっかりと手を繋いで歩いて帰るから。





君の声が真っ直ぐに届く距離で


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