「好きです」

言うつもりのなかった言葉が唇の隙間から零れ落ちた。慌てて冗談めかして取り繕おうとしたのに、思っていたよりも重たい響きを持ってしまったそれをかき消す言葉が見つからない。

「なーんて、冗談ですよ」

かすかに震える声でなんとか呟いてみたものの、今さらなかったことにするなんて出来るはずもなくて、秋晴れの突き抜けるように青い空の下で、風に揺れた木の葉の擦れる音だけが鼓膜に届いた。
目の前に立つ彼は瞳を大きく見開いて、何を言えばいいのか分からないとでもいうように唇を少しだけ震わせた。手に持った煙草が紫煙を燻らせて、落ちた灰が地面に散る。

「やめてくださいよ、そんなマジな反応されると恥ずかしいじゃないですか。変な冗談を言ってすみませんでした。捜査一課でも、頑張ってくださいね」

確認するまでもなく不格好な笑みを浮かべて踵を返す。
呼吸の仕方も忘れたまま足早に歩いたせいで、誰もいない倉庫に飛び込むと、喘ぐように肺が酸素を求めた。この息苦しさと一緒に涙も流れ出すかと思ったけど、瞳はただ宙を見つめるだけで泣くことも出来ない。

いっそはっきりとフラれていれば、ここで号泣することが出来れば、少しはラクになっただろうか。飽和しきって行き場のない想いがグルグルと心の中を掻き乱し、困らせてしまった表情を思い出しては後悔に苛まれる。
もう元の関係には戻れるはずもないのに、結局、私は未だにこんなにも松田さんのことが好きなままだ。







しばらくして署内に戻れば、松田さんは既に自分の席にいた。一瞬目があったものの、今日がここでの最後の勤務のため上司や他の先輩方に呼ばれて忙しそうにしている。
さっき、煙草を吸いに行くからついてこいと誘われたのは、私と話すための時間をわざわざ作ってくれたということなんだろう。

後輩として可愛がられていた自覚はある。そこに勝手な恋愛感情を乗せて、職場の尊敬する先輩以上の存在として松田さんを見るようになってしまった。向こうは私のことなんて、ただの後輩としてしか見ていないことくらい分かっていたつもりだったのに。

ただ「頑張れ」と送り出すつもりが、どうしてあんなことを口走ってしまったのだろうと思いつつ、もう限界だったことも分かっていた。表面張力で溢れそうな限界を保っていた好きの気持ちが、どこか遠くに行ってしまいそうなその姿を前に、もうこれ以上隠し通すことなんて出来なかった。

松田さんの方を極力見ないようにしながら仕事を片付けて、久しぶりに定時ちょうどに帰宅する。背中越しに聞こえる松田さんの声。明日からはもう、こんなに近くで聞けることはないのかもしれない。













「なまえちゃーん、今夜飲み行こうぜ」
「萩原さん……いいですけど、最近多くないですか?」

自販機でコーヒーを買いに署内を歩いていると、後ろからポンと肩を叩かれて振り返る。ばっちりとウィンクをキメた萩原さんを見上げて肩を竦めれば、「なまえちゃんと飲む酒はいつもより美味しいからさ」なんて、本気なんだか冗談なんだか、よく分からない調子で言われる。

「松田さん、付き合ってくれないんですか」
「ま、異動したばかりだし、この町じゃ引っ張りだこだしね」

横に並んで歩き出した萩原さんから目を逸らして、冷たい缶コーヒーの表面を指でなぞる。
松田さんが捜査一課へと異動してから一ヶ月近くが経った。仲の良かった先輩後輩の関係はそう簡単に途切れるものではないらしく、何度か松田さんから私の近況を尋ねる連絡は来ている。それに当たり障りない返事をしながら、無視することも出来ず、気にかけて貰えたことに喜んでさえしまっている自分の浅はかさに何度も打ちのめされた。

「でもまあ、そろそろアイツも落ち着くみたいだし、今度は三人で行けるんじゃない?」
「……私は、誘ってくれなくても大丈夫ですよ」
「なんで?」

覗き込むように見つめられて、思わず言葉に詰まる。
萩原さんがあの日のことを聞いているのかは知らないけれど、少なからず私が松田さんに好意を寄せていたことには気づかれているだろうと思っていた。だからといって、余計な気遣いを見せたり、あれこれと世話をやこうとする人ではないから、今までは気にせず三人で飲みにも行ったけど、もうすでに関係が変わってしまった今は、正直あまり行きたくない。

だけど、好きだと言ってしまったとはいえ、はっきりとフラれたわけでもなければ、連絡だけは未だに取っているせいで断るための上手い理由が浮かばない。それに、松田さんからしたら、あの日のことなんて大して気にもしていないのかもしれない。
だから気兼ねなく連絡をよこしてくれるし、萩原さんと私と飲みに行こうと誘ったって来てくれるだろう。意識されていない。変わってしまった関係を後悔しているくせに、変われなかったことを証明されるのも怖いなんて、本当に救いようがない愚かさだ。

「ちょっと、松田くん!」

その時、廊下の向こうから響いた声に踏み出しかけた足がすくんだ。話したこともないくせに、凛とした芯の通った声の主の姿を鮮明に思い描けてしまう。そして、その横で気怠そうに欠伸でもしているのであろう彼の姿も。

「なまえちゃん」

その角さえ曲がれば、これから捜査にでも向かうのであろう二人の姿が見えると知っていて動けずにいる私のことを、萩原さんは不審がるのではなく、気遣うように見つめてくる。
その視線で、萩原さんが私の気持ちを知っていることが確信に変わる。そして同時に胸の奥にしまっていた、一人きりで抱えるには重すぎた想いの欠片がぽろぽろと。

「好きだって言ったんです、松田さんに」
「ああ……だけど、あの二人はさ」
「言わなくていいです」

萩原さんの声に被せるように声をあげれば、驚いたように瞳が見開かれた。

「あの二人が付き合ってようと、そうでないとしても、人伝に聞くことでしか本当のことを知れない距離に私がいるってことが、すべてでしょう?」

精一杯に笑ったつもりだけど、笑い方を忘れたみたいに口元がほんの少し歪んだだけだった。萩原さんの顔を出来るだけ見ないように来た道を戻る。
廊下の端まで行ったとき、背後から萩原さんの名前を呼ぶ松田さんの声が聞こえた。あと少しあそこにいたら、あの二人と鉢合わせるところだったことに安堵しつつ、どこか名残惜しさも感じていることに小さく舌打ちを打つ。








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