人は簡単には死なない生き物なのだという。けれど、簡単に死ぬことのできる生き物だ。少し鋭利な刃物で手首や頸動脈を掻っ切ってしまえば、これだけの量の血液がこの器の中にあったのかというくらいに噴き出して死んでしまえるんだろう。ただし、それにはどうしようもない勇気が必要で、臆病な私は結局何もできないまま横になっている。

安いパイプベッドに薄いマットレス。慣れたはずのこの場所が今はひどく別の場所のような気がする。
人は死ぬ最期の瞬間にドーパミンとかがいっぱい出て最高の性的快感を感じるのだと聞いたことがある。だからきっと、死ぬのはセックスに似てるんだ。
ごろん、と寝返りを打って、ベッドにもたれるようにして座っている赤葦の髪に触れる。その感覚があまりにも愛しくて、愛しくて、愛しくて、泣いてしまいそうだった。

「ねえ、えっちなことをしよう」
「……本気で言ってる?」

私は明日、この部屋を出ていく。大学生になって一年経ったのを期に、思い切って赤葦と暮らし始めたこの部屋から。
理由は明確で、私と赤葦が別れるからだ。別れるのだから一緒に住むわけにはいかない。この部屋はもともと赤葦が借りていたものだから、私が出ていくしかない。荷物の大半を実家へと送ったこの部屋は、思い出だけを残してもう二度と手に入らないものになる。

「ダメ?私たちは別に嫌い合って別れるわけじゃないんだから」

そう。私たちはお互いを嫌いになったわけでは決してない。ただ、あまりにも馴れ合いすぎてしまった。簡単に言ってしまえば倦怠期ってやつなだけだったのかもしれないけど、とにかく色んなことがなあなあになって、これからくる将来とかが不安になって、少しずつ違う方向に進んでしまっただけ。
いつかこんな日がくるってことは薄々わかっていたんだと思う。だけど、それからひたすらに目を逸らし続けて、キラキラした何かに憧れる自分をひた隠しにしていた。

ぎしり、とベッドが軋む。大学に入ってもバレーを続ける赤葦の腕は筋肉がしっかりついていて大好きだった。その腕が私の頭の横でベットのマットレスを沈ませる。
赤葦はこれからきっと、このベッドで誰か違う人を抱くのだろう。それについて、不思議と嫉妬は感じなかった。どうか、その人が赤葦に幸せにしてもらえればいいと素直に思う。私が最後まで幸せにしてもらえなかったぶん、どうか幸せにしてもらって、と。
だから、結局、私も赤葦への愛はすっかりラブから姿を変えてしまっていたのだろう。

これだけ悲しいのは、今までの生活がすべて思い出になってしまうからだ。別れたくないのは、今までの時間が楽しかったと証明したいからだ。言ってしまえば執着で、所有欲で、依存だ。
だから、こんな関係早くやめてしまわねばいけなかった。それを赤葦が私より先にできる勇気があっただけなんだ。
納得しているのに、心がついてこなくて悲鳴を上げる。

「ねえ、大好き」
「……ああ」
「大好き、だった」
「俺もだよ」

触れるような優しいキスが、いつのまにか激しいそれに変わって呼吸が乱れる。男が、好きじゃない女でも抱ける生き物でよかった。おかげで最後にちゃんと抱いてもらえる。

赤葦とのセックスが好きだ。快感とかそういう話じゃなくて、赤葦に抱かれているという事実がたまらなく好きだ。ドロドロに交わって、グチャグチャに溶け合って、細胞単位で同じ物質になって、最後は同じ濃度で溶けていけるような気がする。
獣のように激しくお互いを求めあえば、ふたりで人間から堕ちていけるような気がする。

「泣かないでよ」
「……泣いてないよ」
「そっか」
「そうだよ」

本当はあんなに泣いたはずなのに、枯れることを知らない涙が溢れだして頬を伝っている。だって、そんなに愛おしそうな瞳で見られて、これが最後だと思い知らされて、泣かないはずがないんだ。そんなに愛しいと思ってくれるなら、その新しいキラキラした恋に手を出すのを諦めて、私と穢れきったドロドロの依存を続けようと叫んでしまいたくなる。それを我慢すればするほど涙が止まらない。

どうしてこういうときに世界が終わってくれないのだろう。空から流れ星が落ちてきて、静かに世界が終わっていくのを想像する。ふたりの終焉が世界の終結であったらなら、最高に幸福な最終回だ。けれど、現実はそうではなくて、これからも私たちの物語は続いていく。もう決して交わらないまま、つまらないハッピーエンドへと向かっていく。

一番好きな人よりも、二番目に好きな人が幸せにしてくれる人なんだと聞いたことがある。赤葦以上に好きな人なんて、もう出会うことはないだろう。だからきっと、私はこれからその二番目に好きな人を探すのだ。私を幸せにしてくれるその人を。そして、その人にいつだって赤葦の面影をみるのだろう。幸福を約束してくれるその人の、声に、腕に、唇に、全てという全てを通して、私は死ぬまで赤葦に捕らわれる。

「ごめんね」
「私も、ごめん」

幸せにしてあげられなくて、幸せにしてもらえなくて。声にしなかった言葉が痛いくらいに伝わってくる。
きっと、私はこの瞬間に死ななかったことを一生後悔するのだろう。けれど当たり前に毎日はやってきて、私はそれに押し流されるように生きてしまうのだろう。






もうすぐ金色の星が沈む


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