アラベスク第1番

カツカツ、とホイッパーとボウルの擦れる音が、一定のリズムを刻んで響く。
放課後、キッチンでお菓子を作るトレイ先輩の後ろ姿を、部屋の片隅に置かれた丸椅子に座って眺める。これが最近の私のお気に入り。

「なんだかメトロノームみたいですね」
「え?」
「ピアノを弾きたくなってきました」

突然の私の言葉に驚いたように振り返るトレイ先輩をよそ目に、音の海に浸るようにゆっくりと瞼を閉じる。訪れた暗闇の中では、トレイ先輩の奏でる心地好い金属音に、オーブンや窓の向こうからの様々な音が重なり、その周りを甘い香りが漂っている。
なんて優しく、鮮やかな世界だろう。つい無意識に、鼻歌を歌いながら指が動く。

「ナマエが幸せそうでよかったよ」
「ふふふ、幸せですよ。それで、今は何してるんですか」
「今日のケーキに添える生クリームを作ってるんだ」

来るか?と誘われたので、飛び跳ねるように椅子から立ち上がり、トレイ先輩の持つ銀のボウルを覗き込む。まだ誰にも踏みつけられていない新雪のような純白。甘い砂糖が溶けた生クリームは、その表面に艶やかな輝きを帯びている。

「……きれい」
「もうすぐタルトタタンも焼き上がるよ」

タルトタタン、可愛い名前に胸が踊る。
それは前にもトレイ先輩に作ってもらったことがある。サクサクのタルト生地の上に、キャラメリゼされてキラキラ輝くりんごの乗ったケーキ。その時の記憶が蘇って、自然と頬がほころぶ。

「……俺も、またナマエのピアノが聴きたいな」
「わー、トレイ先輩のためならいつだって弾きますよ!」

なんなら今からでも!そう弾むように口にすれば、トレイ先輩は「それは魅力的な提案なんだけどな」と笑ってくれる。こうしてふざけあいながらも、トレイ先輩の腕の中ではカシャカシャとなめらかな生クリームが出来上がろうとしているのだから流石だ。

「よかったら、今度のなんでもない日のパーティーでまた弾いてくれないか」
「えっ!いいんですか!ぜひ弾きたいです」
「じゃあ、リドルには後で話しておくよ」

青空の下で弾くピアノはとても気持ちがいい。元の世界にいた頃は、そんな体験したことはなかったので、初めてなんでもない日のパーティーで弾かせてもらったピアノのことは忘れられない。
狭く重苦しい室内から解放されて、春の訪れを喜ぶように歌う音色。ピアノはあんなにも自由だったのだと、やっと思い出せた気がした。

「私も魔法が使えたらなぁ。そしたら、どこへだってピアノを持って行けるのに」

指を振って魔法をかけるマネをする。本当だったらピアノを運ぶのは繊細で、大変な作業だ。とても重いし、音も狂う。だけど、パーティーの準備をする先輩たちの扱う魔法では、いとも簡単にピアノを運び出してしまうし、場所に合わせて簡単な調律なら出来てしまう。

弾いてみたい場所は沢山あるのだ。海や野原、森の中だってとても楽しいだろう。そして何より、オンボロ寮にも自由に持ち込める。
当然のようにオンボロ寮にはピアノなんて無くて、今は学園の音楽室のピアノを自由に使わせてもらっている。それはとてもありがたいのだけど、今までずっと、いつだってピアノが弾ける環境で暮らしてきたから、寮に帰って来てから手持ちぶさたになる夜がよくある。

「そういうときはいつでも俺に頼ってくれたらいいよ」
「そんなこと言うと、常に私のわがままに付き合うことになりますよ」
「それくらいお安いご用だ」

そう言ってトレイ先輩と笑い合っていると、タルトタタンが焼き上がったことを告げるタイマーが鳴り響いた。
甘いにおいの漂うキッチンには、いつの間にか夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光によって、キャラメリゼしたみたいにキラキラと染め上げられた室内。

(……きれい)

この世界は、平凡で素朴な綺麗なもので溢れている。魔法の飛び交う学園も、不思議なことにばかり巻き込まれるここでの暮らしも、私にそんな多くのことを教えてくれた。だけどきっと、私の世界にだって、もっと綺麗なものはあったはずなのだ。

生地を上にして焼くタルトタタンは、オーブンから取り出しただけでは、あの宝石のようなりんごは分からない。私はずっと、あの世界でそんな上辺だけを見てきたのだろう。
眩いばかりに降り注ぐ光と、祝祭のように鳴り響く喝采。心を過ぎるそんな残像を、トレイ先輩が焼き上がったばかりのタルトタタンを大切そうに型から取り出す様子を夢中になって眺めることで掻き消した。




□■□■






「ナマエ氏」
「おお、イデア先輩!」

すべての授業が終わった放課後、今日はお菓子作りの予定はないとトレイ先輩が言っていたので、音楽室に向かおうと廊下を歩いているとイデア先輩に呼び止められた。
イデア先輩と話すことは珍しくはないけど、こうして周りに人が多い場所で声をかけられるのは珍しいので驚いてしまった。

「いや、この前の動画なかなかいい感じだから、早く見せたくて」
「え!ほんとですか!やったー!」

差し出されたスマホを覗き込むと、私がピアノを弾く手元だけを映した動画が表示されている。再生回数に目をやると、確かに思っていた以上に見てもらえているようで、思わず口元がにやけてしまう。

以前からイデア先輩に頼まれて、この世界のゲームだとかアニメなんかの曲を弾いてみることがあった。この世界の音楽に触れられる機会はあまりないので、私自身も楽しくやらせてもらっていたのだけど、それを最近動画で投稿してみようということで、遊び半分でふたりで撮っていたのだ。
撮影だとか編集だとか全部イデア先輩がやってくれるので、私は弾くこと以外はまかせきりなのだけど、それが最近少し伸びているらしい。

「これは次を何にするか悩んじゃいますね!」
「それなんだけど、実はもうちょっと考えてて……」
「ナマエ?」

イデア先輩がスマホを操作していると、突然背後から声をかけられる。驚いてスマホを落としそうになっているイデア先輩の動きが面白くて、つい笑ってしまいそうにながら振り返ると、見慣れた緑がまず視界に入る。

「トレイ先輩!」

数歩離れた距離で小さくひらひらと手を振ってくれるトレイ先輩に、私も大きく手を振って返す。学年の違うトレイ先輩とは、お菓子作りの約束がある日以外は会えないことも多いので、こうして私を見かけて声をかけてくれたことが嬉しくて心が弾む。

「あ……それじゃあ、拙者はもう行くので、あとで動画は送っておくよ」
「え?ああ、はい!しっかり聴いておきますね」

そんなことをしていたせいか、リア充がどうとか言いながら、そそくさと立ち去ってしまったイデア先輩の後ろ姿を見送る。猫背の背中と、特徴的な青く燃える髪が人混みを避けるように遠ざかっていく。

「話してる途中だったのか、悪いことしたかな」
「いえ、大丈夫ですよ」

いつの間にか隣まで歩いてきたトレイ先輩が、イデア先輩を追うように廊下の端を見遣っていた視線を、ふいっと私に向ける。背の高いトレイ先輩と目を合わせるには、どうしたって見上げる形になってしまう。そんな角度も、もうすっかり慣れっこだった。

「何を話してたんだ?」
「ああ、たまにイデア先輩に頼まれてピアノを弾いてるんですけど、次の曲を何にしようかって」
「へえ、そんなにお前たちが仲良かったなんて知らなかった」
「ふふん、学園唯一の監督生の交友関係をなめてもらっちゃ困ります」
「ああ、確かにナマエは誰にも臆さないからな」

エースに言われるのだったら、馬鹿にされていると分かるのだけど、トレイ先輩だと本気で褒められているような気もするので反応に困る。ううん、と唸る私を「なんだその反応」と面白そうに笑ったトレイ先輩の手が、軽く頭を叩いた。

「これから音楽室か?」
「はい!グリムはデュースの部活見に行くって言ってたんで、今日はゆっくり弾けます」
「……俺も行ってもいいか?」
「え?」

てっきり、いつもみたいに「よかったな」と笑顔を向けられるだけだと思っていたので、予想外の申し出に思わず面食らう。

「いや、よく考えたら静かにナマエのピアノを聴いたことがなかったと思ってな。嫌だったら断ってくれて大丈夫だぞ」

ぽかんと呆ける私の反応を勘違いしたのか、少し困ったような顔のトレイ先輩に、慌てて首を振る。

「あ、もちろん大歓迎ですよ!前にトレイ先輩のためならいつだって弾くって言ったじゃないですか」
「そう言えば、そうだったな……じゃあ、今日は俺のために頼むよ」

俺のため、その言葉に鼓動が少しだけテンポを上げながら、音楽室の方向へ足を向け歩き出す。隣を歩くトレイ先輩との距離は、あまりにも自然だ。色々な人に聞かれすぎて、最近では逆にもう今さら聞いてくる人もいなくなった「ふたりは付き合っているの?」の答え。
私たちは決して恋人同士ではなくて、だけど、おそらくお互いを好きだと思っている。

「トレイ先輩」
「うん?」
「イデア先輩を見てると、クレープシュゼットを食べたくなりますね」
「ははっ、今度作るか」

あともう少し、何かきっかけがあれば私たちの関係は変わるのだろうという予感。例えば、トレイ先輩が卒業して、私たちがふたりで会うためには『恋人』という関係が必要になるだとか。今は、ふたりでお菓子を作るし、ふたりで買い物にも行く。トレイ先輩がオンボロ寮の私の部屋に来ることもあるし、その逆だってある。
恋人でなくたって、私たちの関係は十分に居心地がよくて、今のままでよくなってしまう。だから、恋人という特別を象る境界線。そこに行くまでには、あと少し、何かが足りない。






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