黒鍵のエチュード

音楽室の扉を開けば、重たいカーテンは閉められたままで、薄暗い室内にぽつんと佇むグランドピアノ。窓際に駆け寄り、勢いよくカーテンを開ければ、明るい日差しが一気に室内に流れ込んだ。

日が暮れるにはまだ少し早い。綺麗に晴れた青空を眺めて、一度だけ深く息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出せば、身体から余計なものがすべて消えたように軽くなる。
ピアノに向き直って、慣れた手順で蓋を開け、椅子を引いて座る。トレイ先輩も近くに椅子を持ってきて腰をかけたのを確認し、声をかけた。

「何がいいですか?こっちの曲も、有名なやつなら少しは弾けますよ」
「いや、いつも弾いてるのでいいよ。ナマエの世界の曲が聴きたい」

頭の中で暗譜しているレパートリーをさらう。当たり前だけど、元いた世界の譜面なんて手に入らないので、どうしたって弾ける曲は偏ってしまう。暗譜は比較的得意だったので、弾いてきた曲だったら一通り問題ないつもりだけど、これから挑戦しようと思っていた曲が弾けないことは残念だと思う。

しばらく考えて、すっと手首の力を緩める。そして、軽やかに振り下ろす。弾むように、溢れ出す音の粒がキラキラと輝くように。右手が何度も何度も黒鍵に触れる。だけど、すぐに触れていることさえ分からなくなっていく。よく練習の前に弾いていたこの曲は、もうすっかり身体の一部のように馴染んでいる。
短い曲が終わり、トレイ先輩を見れば優しく微笑みを浮かべて私を見ていた。

「ナマエの弾くピアノは魔法みたいだな」
「あはは、私も魔法使いの仲間入りですか?」

この世界に来てからピアノを弾いていると、本当に素直に色々な人が褒めてくれるから、つい勘違いしてしまいそうになる。いつもだったら、それを笑って受け入れるんだけど、何故か今日は心の奥がもやもやしてしまう。

「よくそんなに早く指が動くな」
「……これくらい練習したら誰だって出来ますよ」
「そういうものか?」
「トレイ先輩だってお菓子を作るとき、いちいちレシピを見てないじゃないですか?あれと同じで、私も慣れた手順を追ってるだけなんです」

窓の外は、薄い雲のかかった空がどこまでも広がっている。
水で薄めた綺麗な水色の絵の具みたいだな、と思う。昔、そういう絵を見たことがある。あれが誰の作品だったのかも、有名だったのかも知らないけど、空はこんなに綺麗なんだとあのとき初めて思った。
そんなことを思い出したから、少し感傷的になってしまったのかもしれない。

「昔、大きなジュニアのコンクールで賞を取ったことが何度かあるんです。それで、まあ、将来に期待された若者の一人とかって、ちょっとだけ話題になったことがあって……」
「へえ」
「でも、世間はちゃんと分かってるんですよ。天才とか、神童とか、そんなふうに呼ばれる子供はあの世界には毎年のように現れる。そして、ほとんどがそのまま消えていく。だから、まあ一応チェックぐらいしとくか、くらいだったはずなのに、音楽をやらない私の両親と小さな集落だった地元は、勝手に盛り上がっちゃって……」

引くに引けなくなった。掠れる声でそう呟けば、トレイ先輩は何も言わなかった。
明るくいないといけない、そう思っていたのに上手く笑えそうになくて、そっと鍵盤に視線を落とす。白と黒。見慣れた、重たいコントラスト。

ピアノにはお金も時間もかかる。一般家庭で、家にピアノを置き、一流の先生に教えを請うことがどれだけ大変なことかは、幼い私にだって嫌と言うほど分かっていた。優しい両親はそういことを何も言わないでいてくれたけど、それでもその笑顔の裏の期待に応えるように必死でピアノを弾いた。

「だけど、同じ譜面を使っていて、技術だってそう大差はないはずなのに、全然違う音を出せる人がいるんですよ。そういう本物たちが、ひとり、またひとりって私を追い抜いていく」

ゾッとするくらいに純度の透き通った音が、軽やかに伸びていく。こういう音が、神様にまで届くのだろうと、それを目の当たりにして、ただただ圧倒された。押し黙ることしか、出来なかった。

「トレイ先輩は神様を信じますか?」
「……いや」
「私はいると思ってます。信仰はしてないけど。森とか、海とか、空とか宇宙、そういうものがあるのと同じ感じで、神様だっているんだろうなって。そして、そんな神様に愛された存在っていうのも、やっぱりあるんです」

汗ばんだ身体、上気する呼吸。薄いピンクのドレスに身を包み、轟くような喝采を浴びたあの眩しい光景。あれが、神様の寵愛を受ける世界だったのだろう。
私は何かの気まぐれか間違いで、ほんの一瞬だけあの場所に迷い込んでしまった。

知らずにいれば夢に見ることもなかったのに、見てしまったからまたあの場所に行きたくなってしまった。もう一度、どうか、もう一度だけ。そうやって酸素を求めるみたいに、ここまで足掻いてきてしまった。

「ピアノが好きです。だけど、好きなだけじゃダメだと言われる世界なんです」
「ナマエ」

溢れる言葉が止められない。今顔を上げたら確実に泣いてしまうと思って、トレイ先輩が私を呼ぶ声には聞こえないフリをする。こんな話をする私をトレイ先輩はどんな表情で見ているだろう。

「ここに来る前、本当はもうコンクールに出るのはやめようと思ってたんです。レッスンにも行かない。これ以上やったら、今度こそ、本当に惨めになる。こんなにピアノと向き合うことが苦しくなるなら、ピアノで食べて行けなくたっていい。だけどそう言うと、ピアノを諦めるのかってみんな言うんです。ピアニストになれなかったら、ピアノって諦めないといけないんですか?」

こんなのは八つ当たりだ。この世界に来てからも、ずっと心の奥底に燻っていた不安。あのステージの上でなければ、私の音は、誰にも届かないんだろうか。

「正直、私はこの世界に来て安心したんです。これでピアノを諦めたって、私のせいじゃないんだって」

この世界に迷い込んだのは、神様からのせめてもの救いなんじゃないかと思っていた。うっかり勘違いさせてしまったせいで、こんなにももがかないといけなくなった私を、少しだけ可哀相だと思ってくれたんじゃないかって。

だけど、ふと、そうではなくて、私が逃げ込んだんだと思うこともある。私の名前の載っていない順位表から、それなのに期待をされる重圧から、そして何より才能のない自分から、逃げてここにやって来たんじゃないか。

「いいんじゃないか?」
「え?」

思いがけず近くから聞こえた声に驚いて顔を上げると、いつの間にか椅子から立ち上がったトレイ先輩がすぐ近くにまでやってきていた。

「俺は音楽のことはよく分からないけど、ナマエが幸せそうにピアノの話をするのを知っているし、こうやって俺のために弾いてくれることは嬉しいと思っているよ」

目を逸らすことさえ忘れて、ただじっとその声に耳を澄ませる。私にかけてくれる優しい言葉を一字一句聞き逃さないように。今までは無意識だったけど、きっと心のどこかでトレイ先輩なら、こんな話をしたってこうして慰めてくれると確信していたのだ。

だから、安心してすべて吐き出したのは、私のずるさだ。だけどきっと、トレイ先輩はそんな私のことも見抜いているのだろう。それでいて、こうして甘やかしてくれているから、トレイ先輩だってずるい。

「どこにも行かなくたって、好きなところで弾いて、聴きにきたやつにだけ聴かせてやったらいい。少なくとも俺は、これからもお前のピアノを聴いていたい」
「どうしよう。私、泣いちゃいそうです」
「ははっ、胸貸すか?」
「絶対に制服汚すから遠慮しときます……」

鼻をすすりながら首を振れば、トレイ先輩は笑って、そのまま泣き止むまで優しく頭を撫でてくれていた。
青く透き通った空には少しずつ夕闇が近づき始めている。







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