トロイメライ
頭を撫でられながらみっともなく泣いてしまった日から、トレイ先輩は時々、私のピアノに付き合ってくれるようになった。それはきっと、私のピアノを聴いていたいと言ってくれた言葉への責任のようなものなのだろうと思っている。
そんなトレイ先輩らしい優しさももちろんだけど、ふたりで過ごす時間に、放課後のキッチンだけじゃなくて夕暮れの音楽室が加わったことが単純に嬉しい。
これでいいのだと思った。私が辿り着きたかったのは、あの大きな舞台ではなくて、こうしてたったひとり、誰かのために奏でる音楽だったのだ。むせ返るような熱気も万雷の拍手も、私とはずっとずっと遠い世界の話だったのだ。あの峻烈な鮮やかさに満ちた夢のような光景を、私はこうして静かに忘れていけるのだろう。
そうして過ごしているうちに季節は移り変わり、いつの間にか木々は赤や黄色に色を変え、空はずっと遠くに行ってしまった。秋が、やって来ようとしている。
「……音楽祭、ですか?」
「はい。毎年、この島で開催される大規模なコンサートで、主催者がこの島の出身の世界的に有名なピアニストなんです!そのお弟子さんも参加するものですから、毎年沢山の観客の方々がやって来るんですよ!」
「はあ」
呼ばれた通りにやってきた学園長室で聞かせられる話に、よく話の流れの分からないまま相槌を打つ。音楽の秋とは言うけど、それはどこの世界に行っても同じなのかも知れない。これからやってくる冷たく寂しい冬を前にして、人々は哀愁というものに触れたくなるのだろう。
音楽に言葉はいらないから、深く深く人の心に入り込んで来る。秋のセンチメンタルな空気は、そういう人の本能的な感覚にぴたりと合うのだろう。元の世界でも、秋にはよく音楽祭が開催されていたなあ、とぼんやりと記憶を辿る。
「毎年、うちの学園にも声をかけてくれて貰っていたんですけど、何しろ今までそういった繊細な感性を持った学生がいなかったものですから……ですが、今年はご本人自ら!是非ともナマエさんをと!」
「ええ!?」
思わず漏れ出した頓狂な声。瞳が零れ落ちてしまうのでは
ないかというほど学園長を見るけれど、機嫌良さそうにスラスラと饒舌な語りを続けるだけだった。
「ほら、あなたのピアノの演奏を投稿しているでしょう?あれをご覧になったとのことで」
「いや、でも、あんなの……」
確かに、イデア先輩との演奏動画の投稿は今も続けていて、最近は元の世界にいたころの曲なども弾いてみたりして、少しずつ再生回数も増えていた。
だけど、とてもじゃないけどプロの音楽家にまで届くような数字ではない。ああ、でも、この島の出身で、この学園からの参加者を探していたなら偶然見つけてしまうこともあるのだろうか。
気づかれないように唇を噛む。せっかく忘れようとしていた熱が、じわりと込み上げる。
「……できません」
「え?」
「もう、そういう場所では弾かないって決めたんです」
分かっている。これはあくまでコンサートで、コンクールではない。この島で開催される音楽祭だから、この学園の生徒の文化発表のような場を設けたい。そういうことなのだろう。だけど、有名なピアニスト、その弟子たち。そんな神様に愛される音楽に溢れた舞台で、もう一度あのスポットライトを浴びたら、私は絶対にまたその夢の続きを見たくなる。
「困りましたねえ。来週、打ち合わせにこの島を訪れるから、ぜひナマエさんにも会いたいと、うちに訪問してくれることになっていまして」
「……え?」
「返事はその際にご自分でお伝えしてください」
戸惑う私を余所に、「それでは私、忙しいので」と演技じみて話す学園長によって追い出されてしまう。バタンと無慈悲にも閉められた扉の前でぐったりとうなだれる。
「……なんで、こんなことに」
呟いた声は、虚しく、誰もいない廊下に吸い込まれていく。
□■□■
とぼとぼと俯いたまま廊下を歩く。
今日はトレイ先輩が予定があると言っていたので、ひとりで音楽室に行くつもりだったけど、とてもそんな気分ではなくなってしまった。
グリムはどこに行ったのだろう。もう寮に戻ってしまおうかと思っているけど、ひとりであの道のりを歩くのは、余計に色々なことを考えてしまいそうで話し相手が欲しかった。
そのとき突然、ポンポンと肩を叩かれる感触に驚いて振り返る。
「前を見て歩かないと危ないぞ?」
「……トレイ先輩」
「何かあったか?」
その笑顔に、さっきまでずっと張り詰めていた緊張が優しくほぐれていくのが分かる。
ぽつりぽつりと先ほどの学園長室での出来事を話せば、しばらく考えるような素振りを見せたトレイ先輩が口を開いた。
「今から時間はあるか?お菓子を作ろう」
「え?でも今日は副寮長会議じゃ……」
「実はもう終わったんだ。予想以上に早く終わってしまったから、手持ちぶさたでさ。だから、ナマエが付き合ってくれると嬉しいよ」
どうやって生きて来たら、如才なくこういう言葉が出てくるのだろう。そんな誘い断るわけはなく、力強く首を縦に振る。
連れ立ってやって来たハーツラビュル寮のキッチン。お決まりの定位置で、膝の上に広げた五線譜に音符を書き込んでいく。イヤホンから流れるのは、イデア先輩から次はこれがいいと言われている映画の主題歌だ。
名作だと熱く語るイデア先輩から借りた映画は、確かにとても素敵だった。もの悲しく、だけど確かに未来への希望はある。そんな物語を優しく包み込むように奏でる旋律。
そこでふと顔を上げる。秋も近づき日が暮れるのもずいぶん早くなってきた。西日が差し込むキッチンで、トレイ先輩は手慣れた手つきであれこれと作業をしている。今日のお菓子が何なのか気になるけれど、それはお楽しみだとここに来る途中で言われてしまった。
「料理と音楽って似ていると思いませんか?」
「え?」
突然の私の言葉に、トレイ先輩は驚いたように顔をあげる。
そういえば前にもこんなようなことがあったなっと思い出したものだから、なんだか面白くなって笑ってしまった。けれど、トレイ先輩には伝わらなかったようで、少し困ったような笑みを浮かばせている。
「どっちも整然と理知的で、計算し尽くされてる」
片方の耳にだけはめたイヤホンから流れるメロディーに合わせて、歌うように言葉を紡ぐ。
「そうやって誰かが考えたものをなぞっているのに、完璧に同じには出来なくて、私の、私だけのものになる」
どうすればもっと美味しくなるのか、どうしたらもっと上手く弾けるのか。そうして磨き上げられてきた自分らしさ。それはときに残酷で、ときに優しく、私を表現する。
「ああ、それは分かる気がするよ」
トレイ先輩の黄金色の双眸が優しく細められる。トレイ先輩が作るお菓子はいつだって美味しいけれど、この人にも失敗を重ねたり、上手く出来ない自分を悔しく思ったことがあるんだろうか。
「ほら、これで完成だ。ナマエ、来ていいぞ」
楽譜を簡単に片付けてトレイ先輩が作業をしていたテーブルまで行くと、そこにあったのはお菓子ではなくて小さな箱だった。首を傾げてトレイ先輩の指示を求めると、顎で開けてみろというような仕種を受ける。
不思議に思いながら、その可愛らしいピンクのリボンをほどいて、白い箱の蓋を開ける。
「わあっ……」
そこに入っていたのは、一口サイズほどの小さなお菓子だった。それも一種類ではなくて、シュークリームにエクレア、チーズのタルトやミルリトンと様々なお菓子が詰め込まれている。
「プティ・フール。小さな釜という意味のお菓子だ」
プティ・フール。そう小さく繰り返してから、ひとつ小さなシュークリームを手に取る。ぱくりと口に含めば、柔らかな生地が崩れ、優しい甘さのカスタードクリームが溢れ出てくる。
「……美味しいです」
「よかった。ナマエのピアノを聴いていると、よくこのお菓子を思い出すんだ。ひとつの箱に色々な味が詰まってて、それをひとつひとつ大切に取り出すような」
そんなことを思われていたなんて、なんだか恥ずかしくなって、視線を逸らすように今度はミルリトンを食べる。サクリとしたパイ生地と少しだけほろ苦いアーモンドのクリームが、やっぱり美味しい。
「音楽祭、出てみたらどうだ?」
「……どこにも行かなくていいって言ったのは、トレイ先輩です」
「ははっ、そう言われると弱いんだけどな」
このお菓子を見たときから、何故かそう言われるような気がしていた。そうしたら本当にその通りになったことが面白くなくて、ふて腐れたようにトレイ先輩を見る。
ふっとどこか遠くに思いを馳せるような笑顔。
「聴いてみたくなったんだ。その燦然とした光の下で、自由にピアノを弾くナマエを」
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