リトル・セレナーデ

結局、何も答えは見つからないまま一週間が経った。そうしてついに、学園長に言われていた日がやって来てしまい、重い足を引きずるようにして音楽室に向かっている。

てっきり学園長室だと思っていたのに、先方からの希望ということで音楽室だし、何故か学園長は同席出来ないという。大事な来賓なんじゃなかったのかという言葉が喉まででかかったのに、それよりも学園長がいなくなるスピードの方が早かった。

広い学園とはいえ、所詮はひとつの建物の中なので、嫌でもそう時間はかからず辿り着いてしまう。目の前の見慣れた扉が、今は大きな壁のようだった。

「失礼します」
「やあ、初めまして。会えて嬉しいよ」

意を決して室内に足を踏み入れれば、そこにいたのはスラッと痩せて背が高く、ダークグレイのスーツをお洒落に着こなした壮年の紳士だった。白髪混じりの髪が、またよく様になっている。てっきり恰幅のいい中年の男性を想像していたので、予想の外れたその姿に一瞬たじろいだ。

「あ、初めまして」
「急にすまなかったね。どうしても直接君に会ってみたくて」
「いえ……私の方こそ」

慌てて繕った言葉はあまりにたどたどしく嫌になる。そんな私の様子に気を害した様子もない柔和の微笑みに、そっと胸を撫で下ろした。

「あの……音楽祭の件ですが」
「ああ、だけどその前に、いきなりで悪いんだけど君のピアノを聴かせてもらえないかな」

男性の視線がスッと隣に置かれたピアノへと向けられる。音楽室を希望していると聞いた時点で、こうなることは予想できていたので驚きはしない。
覚悟を決めて、椅子に座り、そっと撫でるように鍵盤に触れる。

「何を弾きますか?」
「まかせるよ。君の心に今流れている曲を」

この世界のクラシック音楽もいくつか弾けるようにはなったけれど、こういう時に心を過ぎるのは聞き慣れた元の世界の音楽だ。
目をつぶって、一呼吸。そうしてゆっくりと弾き始める。ゆるやかで幻想的なメロディー。

この曲名は夢という意味なのだと教えてくれたのは、両親が私への期待を込めてレッスンを頼んだピアノの先生だった。
子どもの頃の夢。私がずっと、行きたかった場所。周りが諦めさせてくれなかったと言いながら、本当は誰よりも私が自分の限界を認めたくなかった。頑張ればもっと上にいけると思っていた。私だって、神様に愛されていると思っていた。そんな私の、夢。

最後の音が消え、ゆっくりと鍵盤から手を離す。パチパチと鳴る拍手の音に引き付けられるように、顔を上げる。

「素敵な音だね。まるで、夢を見ているような」

優しい笑顔。素直に褒めてくれているのが分かる。たくさんの教え子を持ちながら、自身も現役でピアノを弾き続けているという彼の経歴は調べてあった。長年、この厳しい音楽の世界に身を置いた彼に、私の音はどこまで届いただろう。

「私は、ピアノで食べていけると思いますか」

聞かずにはいられなかったその問いに、一瞬面食らったように驚いた表情が、すっと真剣みを帯びる。優しく包容力があるだけではなく、音楽に対して紳士的で、そして厳しい教育者の顔。

「投稿されていた他の曲も聴かせて貰っているけど、技術は十分にあると思うよ。ピアノが好きなことも伝わって来る」

これは前置きだ。上手いだけのピアニストなんていくらでもいる。ぎゅっと制服を握りしめる拳に力が篭もる。

「ただ、コンサートピアニストとして食べて行けるかといえば、おそらく難しい。だけど、コンサートでピアノを弾くだけがピアニストではない。そういう意味では、十分にピアノを弾いて生きていけると思いますよ」

素直な答え。気を使われるよりずっとよかった。
ピアノで食べていけるのではなく、ピアノを弾いて生きていく。それが私の限界。ピアノで食べていける、と胸を張って言えるようなピアニストが本当に一握りなのは分かっている。

だけど、かつて私がその片鱗を目にし、両親に夢を見させ、いつか辿り着けると信じた場所はそんな頂きだった。驟雨のように降り注ぐスポットライトの光、存在そのものを称賛するような喝采。観客席に溢れる人の顔は、喜びと畏敬に満ちている。ピアノで食べていける、選ばれた才能たちだけに許された舞台。

「いえ、ありがとうございます」

世界が変わったくらいじゃ、音の価値は変わらない。これで、急に私のピアノが絶賛されたら、きっと私はピアノをもう弾けなかっただろう。そういう意味では安心していたし、少しだけ絶望もした。私の音はどこにいたって、私の音のままだ。どこにも行かないのではなく、行けなかった、私の音。
もう心は決まっていた。私はここで、夢を諦める。

「ぜひ、私も参加させてください」





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