英雄ポロネーズ

いざ参加すると決めてみると、準備はなかなかに大変だった。いくら学生発表だといえ、有名なピアニストたちが集まるわけだし、そんな彼らをわざわざ聴きに来る観客だって耳が肥えた人たちばかりだろう。そんな人たちを前に下手な演奏をするわけにはいかないと、授業終わりは毎日練習に明け暮れることとなった。
この世界に来てから気ままに弾いてばかりいたので、真剣にピアノと向き合うといくら勘が鈍っているような気がして不安になる。夜も練習を続けたいので音楽祭までの間、特別にオンボロ寮にピアノを置かせてもらえることにもなったのは助かった。

「へえ、こんなに色々なのがあるんだな」

そして、もうひとつ大切な準備であるドレス選びのために、今日はトレイ先輩と街まで来ている。身一つでこの世界にやって来た私は、当然ながら演奏用のドレスなんて持っていない。近々買いに行かないとな、と零したらトレイ先輩が付き合ってくれることになったのである。
ふたりで出掛けることは初めてではないけれど、ドレス選びと思うとなんとなく緊張する。ちなみに、学園の生徒として参加するのだからと資金は学園長から調達した。

「私、何着か試着させて貰ってきますね」
「ああ、俺はここで待ってるよ」

ちょっと中まで入るのは気恥ずかしいというトレイ先輩に外で待っていて貰って、店内に入る。店員さんに声をかけ、試着したいドレスをいくつか指さしていく。綺麗というよりは、可愛いと表現されやすい自分の容姿は分かっているので、淡いピンクや水色などを中心に。

形は決まって、肩と背中がしっかりと出ているもの。普段は露出はそこまで好まないので、舞台の上ではこういう真逆の衣装の方が気が引き締まる気がする。
そこでふと、壁にかけられた一着のドレスに目が止まる。トレイ先輩みたいな深いグリーンの色。

「あちらも試着されますか?」
「えっと……」

頭の中であれを身につけた自分を想像する。上品な色も、身体のラインに沿うような形も、とても似合うわけがなかった。ゆるゆると首を振って、代わりに隣のライトグリーンのドレスを指差す。







結局、最後に着たドレスに決めて店を出ると、トレイ先輩は店の前で見知らぬ女性と楽しそうに話し込んでいた。濃い茶色の髪を緩く巻いた、まさに大人の女性。
つい声をかけるのを躊躇っていると、ふいにこちらを見たトレイ先輩と目が合ってしまった。

「ああ、決まったか?」
「はい……えっと」
「あら、彼女?トレイくんも隅に置けないわね」
「いえ、後輩ですよ。こちらはうちの店の常連さん」
「初めまして」
「ええ、初めまして。雑誌のライターをしてて、今日も仕事でこの島に来たんだけど、こんな偶然あるのね」

おずおずと頭を下げる。後輩。間違っていない。私たちの関係はそれ以外に表しようがない。
優しく微笑みを浮かべるこの女性は、きっとあの深いグリーンのドレスを美しく着こなすのだろう。そう思うと、少し侘しさのようなものが胸を過ぎる。

「それじゃあ、私は仕事があるから、これで」
「はい、長く話し込んでしまってすみません」
「いいえ、久しぶりにトレイ君と話せて嬉しかったわ。また買いに行くから、ご両親によろしく」

そういって去っていく女性に、もう一度頭を下げる。美しく伸ばされた背筋は、風を切るように遠くなっていく。遠目に見たトレイ先輩と並んだふたりの姿は絵になっていた。私もいつかあんな女性になれるだろうか。さっき店で思い浮かべたあのドレスを身につけた自分をまた思い出してしまって、肩を落とす。

「綺麗な人ですね」
「ああ、確かにな」

そう言ったトレイ先輩の言葉は、素直な感想で、私の心をひしめくこの感情も嫉妬ではない。これは生まれてはじめて抱いた、透き通るような恋だ。私たちの関係は今のままで十分だから、ずっと後輩のままでいいと思っていた。

だけどあのとき、私は確かにそれ以上が欲しくなった。トレイ先輩に、ただの後輩だと紹介されたことが物足りなかった。恋人になったからといって、何が変わるのだろうかと思っていたあの頃の私に足りなかったもの。恋人になって胸を張って自分が彼にとっての特別だと言える、その覚悟。

トレイ先輩の特別になりたい。私はもうそれだけ、この人が好きだ。

秋風のそよぐ街で、静かに心を決める。
もともと音楽祭のために選んでいたのは愛の曲だった。美しいメロディーから始まり、鮮やかに色を変え、奏でられる音。毎日欠かさず練習しているその旋律に、私の愛も乗せようと決めた。私の音を好きだと言ってくれたトレイ先輩に、私の想いが届くように。






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