愛の夢 第3番

前の演奏が終わり、次の演奏者が出ていく。ざわざわというざわめきは、それだけ観客の多さと感動を表している。
出番が近づき、袖にスタンバイしながら意識を集中させる。指を温めるために、握ったり開いたりを繰り返しながら、深く息を吐いた。
さっきまで観客席で演奏を聴いていたけど、有名な音楽祭というだけあってレベルが高い。これからこの場に自分が登場することさえ忘れられたら、どんなに感動したことだろう。プロの音楽家たちにの合間に演奏を披露するだなんて、改めて考えるとなかなかに無謀だ。

心臓の鼓動があまりにもうるさい。すごく緊張している。指が震えそうになる。元の世界にいた頃も、定期的にコンクールには出ていたので、人前で弾くのはそれほどブランクがあるわけではない。それならどうして、今日の私はこんなにも興奮しているのだろう。

そう自己分析をしようとしてハタと気づく。
ここはコンクール会場ではない。音楽祭なのだ。ここにいる人たちは、私を批評しようとしているのではなく、ただ音楽を楽しみに来ている。
今までは優劣を付ける場なのだから、失望されたって仕方ないと思っていた。眠気を堪えるような審査員の表情を見たって、それが仕事なのだからと思っていた。だけど、ただ音楽を楽しみに来ただけの人にそんな顔をさせてしまったら、どうしたらいいんだろう。
生まれてはじめて観客席の表情を見た気がした。

──あの陳腐な演奏は何?
──ああ、学生ね。それなら所詮はこんなものよね。
──せっかく今まで気分よかったのに、ちょっと興が削がれたな。

頭の中をまだ見ぬ嘲笑と共にそんな声が聞こえる気がした。
せっかく温かくなった指から、急激に温度が消え失せていく。
どうしよう、怖い。
あのステージに、立ちたくない。

「大丈夫か」

震える指を掴んだ温かな手の温度。そして耳に馴染む声。
顔を上げればトレイ先輩の瞳に私が映っている。なんて不安そうな顔をしているんだろう。だけど、ここには私ひとりじゃない。トレイ先輩は私に気づいてくれた。そう思うと少しだけ気持ちがラクになる。

「誰も、私の音を聴いてくれなかったらどうしよう」
「俺が聴いてるよ」
「私が失望させたら、どうしよう」
「心配しなくても、お前のピアノは綺麗だよ」

優しく包み込んでくれるようなトレイ先輩の言葉に、少しずつ身体の温度が戻って来る。
もうすぐ前の演奏が終わる。次は私の出番だ。それまでになんとか気持ちを持ち直さないといけない。練習通りに弾けたら、そこまで酷いものにはならないようには仕上がっている。

落ち着けと自分に言い聞かせる。
演奏前にこんなに緊張するのなんて、いつ以来だろう。あんなに不安だったはずの元の世界で受けてきたコンクール。あのとき私はきっと、無意識に諦めていたんだろう。だからいつの間にか、落選への通過儀礼のようにここに立っていたのかもしれない。

「魔法をかけてやろうか」
「うう……お願いします」

トレイ先輩のユニーク魔法。私の出番はそう長くはない。その魔法の効果は十分にもってくれるだろう。
深呼吸をしながら瞳を閉じる。大丈夫、これでいつも通りに弾ける。

「──ナマエが好きだよ」

はっきりと耳に届いた言葉に、反射的にぱちっと目を開ける。時間が止まったのかと思ったけど、ステージから聴こえる演奏はとめどなく流れている。じゃあ、今の言葉は間違いなく現実だ。

「……これが終わったら私が言おうしてたのに」
「ああ、そんな気がしたから今言わないとと思ってさ」

思わず零れた言葉に愉快そうに笑うトレイ先輩。そんなことされたってカッコイイと思ってしまうだけだからずるい。

「でも、効果覿面だろ?」

悔しいことにさっきまでの不安はすっかり消えてなくなっていた。今、この胸にあるのは溢れんばかりの喜びだ。
ちょうど前の演奏が終わった。私の名前が呼ばれる。

「彼女の晴れ姿、しっかり目に焼き付けておいてくださいね!これはトレイ先輩へ向けて弾くんです!」

ライトグリーンのドレスを翻してステージに向かう。扉から漏れ出していた光が、暗闇で長いこと彷徨っていた私を導くように広がっていく。
この先に待ち受ける驟雨のように降り注ぐ眩い光の中で、黒く輝くピアノが、私を待っている。その光景は、懐かしい友人との邂逅のように胸が高鳴らせた。

ここでもきっと私の音は神様に届くことはないだろう。それでも、私の音をちゃんと受け止めてくれる人がいる。それだけで、鍵盤を叩くタッチも、ペダルを踏む足も、身体に羽が生えたように軽いに違いない。

きっと、私は今ならどこまでも飛んで行ける。






□■□■






学園へ帰る道をトレイ先輩と並んで歩く。
夕方から始まった音楽祭を最後の片付けまでいたので、すっかり夜も深まっていた。静かな秋の風が頬を撫でて、少しだけ肌寒い。
演奏は上手くいった。練習通りに弾けたし、最後の音が消えたあとは優しく温かい拍手に包まれた。他の演奏者たちからも褒めてもらえた。

「本当に見事だったよ」
「もう何回も聞きましたよ。そんなに良かったですか?」
「だって、あれは俺のために弾いてくれたんだろ?感動しないわけがないな」

そう言われると勢いよく吐き出した啖呵が急に恥ずかしくなって、話題を変える言葉を探す。

「最後の演奏、本当に凄かったですね」

音楽祭のフィナーレは、主催者の彼によるオーケストラのピアノ演奏だった。
初対面での印象通りの優しく柔和で真っ直ぐな音なのに、オケの演奏にも負けない荘厳で怖いくらいの力強さも兼ね備えている。
あの演奏を思い出して、ゾワリと鳥肌が立つ。久しぶりに目の当たりにした才能の差。喝采を受ける側と与える側。あそこが神様の世界。私が夢見た場所。

(……終わったんだ)

今日、私はひとつの夢を挫折した。ゆるやかに記憶から消そうとする忘却ではなくて、はっきりと今日がその日だと言える挫折。

絶望と苦悩の果てに、音楽を諦める人たちがいることは知っている。自分の音楽という迷宮から抜け出せず、結局すべてを捨ててしまう人もいる。それに比べたら、私の挫折はきっとましだった。むしろ、とても幸せな終わり方だったのだろう。
瞳を閉じれば、まだかつての栄光は蘇る。だけど、それよりも鮮烈な今日の記憶。必死に奏でた愛の音。

「私が弾く愛の曲はどれも重いんだそうです」
「え?」
「ピアノの先生にそう言われたことがあって、だからきっと、私自身の愛も重いんだろうなって」

あなたの愛はふわふわと不安そうなのに、どうしてそんなに重たいのかしら。そう言って笑った先生の声が蘇る。
ピアノで食べていけるほどの才能はないと、私を教えるにつれて先生は気づいていたことだろう。それでも、丁寧に教えてくれる先生だった。いつかピアニストという夢は諦めることになっても、ピアノに関わって生きていけるように。
そんな思いが、今なら分かる。

「将来、店にはピアノを置こうか」
「お店って……え」

突拍子もない言葉に驚いて、トレイ先輩の顔を見つめる。
しばしの沈黙の間に、じわじわとその言葉の意味が分かってきて、肌寒かったはずの頬が熱を帯びる。

「少し改築してカフェスペースを作って、そこでナマエがピアノを弾いてくれるなんて、どうだ?」
「……グランドピアノは高いんですよ」
「ははっ、頑張って働かないとな」

どちらからともなく手を繋ぐ。手に入れた特別な場所。
ふたりの間を木枯らしが吹き抜けていく。木々のざわめきが祝福の拍手のように響いて、その音を追うように空を見上げた。

濃紺の空にはキラキラと輝く星が散りばめられている。私もあんなふうに輝く星になりたかった、とすべて忘れることは出来ないだろう。
だけど、多くの人を笑顔にする甘いケーキと、そっとその背を押すような音楽に溢れる未来で見るその夢は、きっと少しだけほろ苦く、それでも優しく私を包んでくれる気がした。






back : silent film