月が好きだった。暗い夜道を明るく照らしてくれる月を見ていると、どんなに寂しい夜でも歩いて行けるような気がしていた。何も持たず、知り合いなど当然いない世界に飛ばされようと、そこで自分はひとりぼっちなんだって思い知らされようと、でも月は繋がってる気がするんだって少しだけ笑えた。
だから、こんなふうに月を嫌いになる日が来るなんて思いもしなかった。
本当に、人生は思うようにいかない。



「帰れる、んですか」
「ええ、帰れますよ。帰るというより、帰されるという方が正しいかもしれませんが……」

一人で学園長室に来るようにと言われたとき、きっとまた何か面倒事を押し付けられるのだろうと思っていた。だからいつもの調子で扉を開いたのに、そこで私を待っていた学園長は珍しく真面目な表情をしていて、それを見たときから嫌な予感はしていたのだ。

「次の満月の晩に学園の鏡と監督生さんの元の世界が繋がります。そしてあなたを連れ去っていく」

自分の話だとは分かりながら、どこか他人事のようにぼんやりと聞き流してしまう。「もう少し早く分かればよかったのですが……」と申し訳なさそうな学園長は、いつもの調子で「私、優しいので」とは言わない。まるで私のことを哀れむようなまなざし。
何故だろうと一瞬考えて、それだけ私がこの世界に馴染んだように見えていたからだと気づく。ああ、そうか。別れることになるのだ。この世界で出会った多くの人たちと、ここで手にした多くのものと、そして、誰よりも大好きなはずの恋人と。

そう気づいた瞬間、急に身体の芯が体温を失ったように冷えていく。さっきまでは遠い世界の出来事のように感じていた現実が、鋭利なナイフのようにひやりと喉元に突きつけられる。

「……次の満月って」
「ちょうど一週間後ですね」


一週間、そう言葉にしたつもりだけど本当に声になっていたかは自信がない。
この世界に来たばかりの頃は、この夢が覚めるのに何日かかるのかと一日一日を指折り数えていた。あの頃は一週間ですら途方もなく長く感じていたはずなのに、今ではもうたった七日間の猶予としか思えなくなっている。
エース、と心の中で呟く。いつかはきっとこんな日が来るような気がしていた。はじまったばかりの私たちの恋には、他の恋人たちとは違う終わりがつきまとっているのだということを覚悟はしていたつもりだった。だけど、これからもずっとこの世界で生きていくような未来も心の隅で思い描いてしまっていた。

「ここへ来たときと同じでこの世界のものを持ち帰ることは出来ないでしょうから、残していって困るものはそれまでに処分しておいてください。それ以外の不要なものはこちらで処分しますので、そのままにしておいて構いません」

はい、と頷いて学園長室を出る。ここまで面倒を見てくれたお礼か、変に気を遣わせてしまった謝罪か、他にも言った方がいいことはあるはずだと思いながら、だけど今はそれを口にするだけで精一杯だった。
扉の閉まる音があまりにも冷たく、世界を断絶していくように響く。



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