「何それ、そんなのいきなり言われて信じられんの?」
「だけど、そういうことなんだよ。私がここへ来たときだっていきなりだったんだし」

学園長室を出たそのままの足でエースのところへ向かった。もう少し自分の気持ちを整理する時間が必要な気もしたけど、それよりただ時間が惜しかった。教室で私を待っていたエースに「大事な話がある」と言えば、自然とオンボロ寮で話をすることになる。寮へ向かう道中、なんと切り出すか考えて口数が減ってしまった私に、エースまでどこか緊張した面持ちになっていた。
そんなエースと自室で向かい合い、学園長から聞いたことをありのまま話す。話が核心へと向かうにつれて頬を引き攣らせながら叫ぶように声を荒げたエースとは対照的に、私の心は少しずつ冷静さを取り戻していく。

「そんなの、まだなんとかなるかもしれないじゃん」
「ならないよ。だって、もう一週間しかないんだよ?」

自嘲するように笑えばエースはぎゅっと唇を噛み締める。
なんとかなるなら学園長はあんなふうに私に話したりはしないだろう。私には選択肢など与えられず、世界なのか時間なのか、とにかく手を足も及ばない流れのようなものに翻弄されるしかないのだ。
友人も思い出も、恋も、一方的に与えられては奪われる。


「……鏡」
「え?ごめん、聞こえなかった」

小さな声で呟かれた言葉は不明瞭で、もう一度聞き返せば両手で肩を鷲掴まれた。その衝撃に驚いて目を丸くする私を見つめるエースの瞳はあまりにも真剣だ。

「鏡が連れてくんでしょ?じゃあ、鏡から逃げようぜ」
「逃げるって、そんなの……」
「この学園を出てどこか遠くへまでさ。二人でずっと生きていけるところまで、逃げよう」

肩に触れているエースの体温が熱い。逃げる、という言葉を声には出さず口の中で呟く。味のしない硝子玉が少しずつ溶けていくみたいにその言葉が身体の中に沁みていく。
その間、エースはじっと祈るように私を見つめている。

「……うん、逃げよう。二人で、どこまでも」

なんとか絞り出した声。それを聞いたエースが安堵の表情を浮かべて私を抱きしめる。耳元で「じゃあ、今夜迎えに来るから」と囁かれる声に大きく頷く。
そんな私の頭を一度だけ撫でてエースは部屋を出ていった。その後ろ姿をぼんやりと見送ってから、窓へと近づく。ちょうど寮を出て行くエースの後ろ姿が見えて、なぞるようにガラスへと触れる。

「エース」

窓ガラスに映った私の両目からは涙がボロボロと零れていて慌てて手の甲で拭う。エースの後ろ姿はまっすぐと伸びていて、その瞳もずっと遠くを見据えているのが想像できる。エースが背負ってくれた覚悟。同じものを私は背負えているだろうか。

「……ごめんね」

拭っても拭っても止まらない涙は、エースが私のために投げ捨てた未来を思ってなのか、それともそれだけの愛へなのかはわからない。
よろよろと窓際に置いたソファに腰掛ける。継ぎ接ぎだらけのここに二人で座って、ぎしぎしと軋む音に「壊れる!壊れるから!」と叫びながら笑ったことがあった。それ以外にも、この部屋に、この学園に、たくさんの思い出が凝っている。

だけど、言えなかった。本当は、帰りたくないのか自信が無いのだと。エースの真剣なまなざしを見つめて、そう口にすることなんて出来なかった。ここから逃げるということは、元の世界からも逃げるということだ。お父さんやお母さん、友達たち。ここで過ごした思い出よりも多くのものを置きっぱなしの元の世界。
それでも、このまま奪われるままで終わりたくないとも思ってしまった。そういう運命だから仕方ないでしょと言われて、「うん」と頷くことしか出来ない子供だと認めたくなかった。
もちろん私もエースもまだまだ子供なのはわかってはいる。だけど二人で手を繋ぎながらなら、その境界だって飛び越えられるんじゃないかって、そんな気がしてしまった。

だから、逃げることにした。
この逃避行の先で私たちはちゃんと大人になれるだろうか。それとも、結局子供のままでしかいられないのだろうか。

もう一度、窓の向こうに視線を移す。そこにはもうエースの姿は見えなかった。
今、私たちの見据える未来は同じ景色なんだろう。だけど、二人で幸せに暮らす、そんな夢を私たちはいつまで見続けられるのだろう。




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