その日の夜、エースは事前に連絡をくれていた時間通りに現れた。グリムが眠っているのを確認してからすっかり住み慣れた寮を出ると、少しだけ肌寒い風が吹き付けてきた。空には半分の月が浮かんでいる。これから七日かけて、あの月は丸く膨れていくのだ。その時、私はどこにいるのだろう。思わず頭をよぎった考えを慌てて掻き消して、少し前を歩くエースの背中を見つめる。
色違いで買ったお揃いのリュック。これを買いに行った日が随分と昔のことのように感じる。必要なものだけを詰め込んだはずのそれが、どうしてか立ち止まってしまいそうな程に重い気がした。

無事に学園を抜け出して島の港にについた私たちはその日の最終便の船に乗った。一晩かけて近くの国の港へと向かうらしい。一緒に船に乗り込んだ妙齢のご婦人に「学生さん?」と聞かれて思わず口ごもってしまったけれど、隣にいたエースが言いよどむことなく、私たちはきょうだいで、私用で故郷に帰るのだと説明し、特に怪しまれることもなかった。
すらすらとエースの口から飛び出した言葉は、きっと最初から考えてくれていたものだろう。それは、たった半日でエースがどれだけの準備をしてくれたのか計り知るには十分で、何も言えずにぎゅっと繋いだ手に力を込めた私に、エースもまた何も言わなかった。

うつらうつらと眠りと覚醒の浅瀬を行ったり来たりしているうちに朝はやってきて、船は一際大きな汽笛を鳴らして港へと着いた。ぞろぞろと船を出る人たちと一緒に埠頭へ降りる。船の中のこもった空気から解放されて、澄んだ空気が肺の中へと流れ込む。深呼吸しながら見渡した海は朝靄がかかり、灰色と青の混ざった色をしていた。

「……すごい」
「ふつーの海じゃん」
「ううん、この世界にきてから、今までずっと同じ海しか見たことがなかったから」

賢者の島の海にはエースとも、グリムやデュースとも何度も行った。そこから水平線を眺めて、その先にも陸があるのだということは頭では理解していたつもりだった。それでも、それは私とは関係のない話だと、どこかで割り切っていたのかもしれない。こんなふうに初めて降り立つ町で海を眺めていると、随分と遠くまで来てしまったような気がする。

「これからはどこへだって行けるって」
「……そうだね」

少しだけ目尻に涙が滲んでしまった私に、エースはきっと気づいているのだろう。それでも気づかないフリをして楽しそうに笑ってくれる。
海から一際強い風が吹き付け、私たちの髪を乱暴に撫で回した。しょっぱい潮の匂いのする風。それが心が染みるように痛むのは、自分でも気づいていない傷がそこにはあるせいかもしれない。
そんな風に攫われないように、昨晩から繋いだままの手をいっそう強く握りしめた。


***



「はー、疲れたー」

ぼすん、とベッドに倒れ込む。
あの町の港は賢者の島への直通便が出ているから学園関係者と会うかもしれないということで、そこからさらに電車に乗って山間の町へと辿り着いた。そこで手頃な値段の宿を見つけて今に至る。
船ではお金を節約するために個室ではなかったので、久しぶりのエースと二人だけの空間にやっと緊張が解けていくのを感じる。

「腹減ったからオレは町ちょっと見てくるけど、ここで休んでる?」

エースもベッドに腰掛けると、二人分の体重に少しだけマットが沈む。
正直、起き上がるのが億劫になり始めてしまっている感は否めない。だけど、朝から何も食べていないので確かにお腹も空いている。それに、これからしばらく滞在することになる町を見ておきたい気もした。

「……私も行く」
「じゃ、動けるうちに行こーぜ」


宿から出て石畳の道を歩きながら、きょろきょろと辺りを見渡す。そこまで大きな町ではないものの、通り沿いには小洒落たお店が建ち並び、人通りもそこそこある。観光客もわりと来るようで、この町の住人ではない私たちを物珍しがる人もいなそうだ。

「素敵な町だね」

近くのパン屋から焼きたてのパンの香ばしい香りが漂う。それに惹き付けられていたら、その隣の店先で果物を売るおばさんが手を振ってくれた。開放的でありながら、人の温もりもちゃんと感じることが出来る。

「だろ?一回来て見たかったんだよねー」
「そうなの?」
「そ、二人で旅行とかに来たらちょうどいいかなって」

エースがそんなこと考えていたなんてまったく知らなくて、思わず目を丸くして見返してしまう。そんな私の表情に、エースはいかにも不満そうに眉をひそめた。

「何その顔?」
「いや、そんなこと考えてたんだと思って」
「はー?他にも、オレが今度家帰るとき一緒に連れてこうかなとか考えてたけど」
「うわー、ごめん、私そんなこと考えたことなかった。えー、エース私のことめちゃくちゃ好きじゃん」

学園を飛び出してからずっと肩にずしんと乗っていた重石が、無事にこうして町に辿り着き宿も見つけられたことでやっと軽くなる。それにつられてこんな軽口まで叩けるようになった。
おどけるように笑って見せれば、さっきまで同じように笑っていたエースが急に真面目な顔つきなる。

「好きじゃなかったら、こんなとこまで来てないって」
「……それもそうだ」

見上げた空は突き抜けるような青色をしている。この色も、この空も、初めて見るわけではないはずなのに、縁取る景色が変わるだけでまるで知らないもののような気がする。
本当なら今頃は二人揃って授業を受けていたはずだ。それなのに、こんなにものんびりと嗅ぎなれない町の匂いに包まれている。

「グリムやデュース、心配してるかなぁ」
「あー、流石にしてんじゃね?」

二人が朝起きて、まず私たちがいないことに気づくだろう。そうしてそれを学園長に話に行って、私の身に起きていた大体のいきさつを知る。
何も相談せずいなくなったことを怒って、だけど二人ともちゃんと優しいから、とっても心配している。そんな姿を想像するのは何も難しくはなくて、つい鼻の奥がつんと痛くなった。

「……また、会えるかな」
「いつかは会えるでしょ」

一週間。それを過ぎればもう元の世界に連れ戻される心配はないのかということも分からない。もしかしたら、鏡はずっと私のことを探し続けることになるのかもしれない。だからもう学園に戻る気はないと昨日の夜にエースは言った。

だけどそう言いながらも私たちの持っている資金は、エースが密かに貯めていたというお小遣いと私がコツコツ稼いだバイト代だけだ。一週間は二人でも十分やっていけるだろうという額ではあるけど、その先のことは何も考えられていない。

「オレ、さっきからずっと考えてんだけどさ」

その声に石畳の数を数えるように俯いていた顔を上げて、エースの方を見た。その視線は私の方なんて向いてなくて、ずっと遠くを見据えている。次の言葉を待つ時間が随分と長く感じる気がした。

「部屋、ツインじゃなくてダブルにしてもらえばよかったよな」
「……バカじゃないの」

何か大切なことを言われると思って身構えていたのにと文句を言えば、「だって、シングルベッドに二人で寝るのは狭いじゃん」と飄々と返される。
一緒に寝なきゃいいじゃん。そう口にしかけて、急にこんな時にそんな話をしていることこそバカバカしくなってやめた。

どこからかカレーの匂いが漂ってきて、空腹を急激に刺激される。エースも同じことを考えていたらしく、目配せだけでそのお店に決めた。
心の奥で冷静な私が、随分と呑気だなとこの状況を俯瞰している。だけどきっと、人の緊張とか憂鬱って限度があるのだ。一度全部使い切ってしまったら、それをチャージする時間が必要で、今はまさにその時。
だから今の私はこんな二人だけの日々が本当にずっと続いていくんじゃないかって、すっかり信じられてしまっている。
幸せな時間というのは続けば続くほど、終わることが怖くなるって知りながら。







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