月が浮かんでいる。濃紺色の夜空に、冴え冴えと。どこが欠けているのか分からないくらい、まあるい月だ。
サイドテーブルに置かれた時計は深夜の一時を指している。秒針は止まることなく進み続ける。じっと眺めていると、身体の奥底の方からそれを壊してしまいたい衝動が湧き上がる。チクタク、チクタク。乱暴に持ち上げた時計を思い切り床に叩きつけるところを想像する。ガシャンと無機質な音を立てて、歯車やら螺やら、ほんの数秒前まで時計を構成していた部品が飛び散る。
それでも時間は止まってはくれない。

かぶりを振ってそんな妄想を打ち消す。サイドテーブルを挟んだ向こうのベッドでエースが眠っている。二つ並んだベッドのあえて窓から遠い方を選んだのは、言葉にはしないけど無意識に月から遠ざかりたかったのだろう。
こちらを向いて眠るエースの腕の中、私が抜け出したそこがひどくもの寂しげに見えた。
また視線を窓の外へと戻す。こうして見るとあの月なんて、この手のひらで握り潰せてしまいそうなくらいに小さい。だからつい、誘われるように月へ向けて手を伸ばしていた。掴み取るつもりなのか、掴まれようとしているのか分からないくらい、危うげに。
その瞬間、背後から急に腕を掴まれて、そのまま閉じ込めるように抱きしめられる。

「勝手に、いなくなんなって」

まるで泣いているような、縋り付く響きを纏ったエースの声。固く私を抱きしめる腕の中で夜空が少し遠くなる。今日の夜空に浮かぶ月が、満月と呼ばれるにはあと少し足りないように、私たちも何かが欠けている。それを埋めるように月が丸くなるのと同じスピードで、私たちは大人になるのだ。なんとなく、そんな気がした。

「いなくなるよ。本当はエースだって分かってるんでしょ」

自分でも驚くほど冷たく、感情のない声。ずっと口にしてはいけないと思っていたはずの言葉なのに、どうしてこんなにも簡単に滑り落ちてしまったのだろう。
エースの手がびくりと震える。怯えるような吐息が首元にかかる。それから、身体がぐらりと揺れた。


「黙れよ」

背中に当たる柔らかい感触。真上の天井の板目の模様。エースによってベッドに押し倒されたと理解するまでに少し時間がかかった。私を見下ろすエースの瞳は静かな怒気を孕んでいる。

「エース」
「……オレたちは、ずっと一緒にいるって言ったじゃん」
「うん、言った」

エースの震える声を聞きながら、そっとその髪を撫でる。一緒にいると、ずっと大好きだと、そう、誓いのつもりですらなく、当然のこととして口にしていた。その気持ちに、嘘なんてないはずだった。だけど本当は、心のどこかで叶わないことも知っていた。
エース越しに月が見える。私の瞳にもきっと大きな月が浮かんでいる。それから隠れるように夜の闇に溶けたいのに、大きな月の光が明るすぎてお互いの輪郭が顕になってしまう。

「……ごめんね」
「聞きたくない」

出会ってしまったことの、愛し合ってしまったことの罪を問われる壇上に立たされているような罪罰の重み。エースのことを好きにさえならなければ、あともう少しこの気持ちをひた隠しに出来ていれば、こんなにも重たい咎を背負わせる必要はなかったのに。
目尻に溜めていた涙が頬を伝う。それを舐めとるようにエースの唇が頬に触れる。生暖かい感触と吐息。それがいやに生々しくて、思わずぎゅっと目を瞑る。
エースの唇が頬から順に首元へと身体のラインをなぞるように下りていく。

「……っ」

鎖骨のあたりを甘噛みされて、思わず固く閉じていたはずの唇の隙間から吐息が漏れる。その声に一瞬エースの指が緊張したように震え、それから意を決したようにその左手が服の裾から侵入してきて脇腹をさするように這った。うっすらと瞳を開くと、覆い被さるように私の首元に顔をうずめたエースの髪と、おへそのあたりまで露出した自分の身体が見えた。

「するの?」
「……するよ」

ためらうような間を置いてから、それでも断定された言葉に小さく息を飲む。付き合ってから、いつかはこうなる日が来るだろうとは思っていたけど学園では案外二人きりになるというのは難しかったし、この宿に来てからもなんとなくそういう雰囲気になるのを避けていた。

エースの言葉に、どこか諦めのような心地が過ぎる。だけど、エースの指は私のあばらの骨に触れながらも、それより先には進んでこない。まるでそこに侵入を拒む透明な壁でもあるかのように。
ただ、じっとその侵攻を待つ私も、さ迷うように手を這わせるエースも、きっと同じことを考えている。
本当であれば愛と多幸感に満ちていたはずのこの行為を、怒りと絶望に任せて乱暴に済ませることと、このままついに互いの熱を知ることなく潔白のまま永遠の別れを迎えること、どちらの方がより深い傷を残すことが出来るのか。子供のおもちゃみたいな天秤で、今必死にその重さを計っているのだ。

「……エース、ごめんね」
「だからなんで、なんでお前が、謝んの」

耐えきれなくなって零した言葉に、エースが顔を上げる。その瞳は怒っているようにも、泣いているようにも見えた。その初めて見る表情に、ゆらゆらと動いていた天秤が答えを見つけてしまう。
空いていた手をそっとエースの手に重ねる。そしてそのまま、私の身体から離すようにベッドへと降ろした。エースも抵抗することなくそれを受け入れる。

「もう、帰らなきゃ」

できる限りの笑顔を浮かべれば、一瞬顔を歪めたエースが私を掻き抱く。震えるその腕に、もしかしたら今、エースは泣いているのかもしれないと思った。
抗えなかった運命に、越えられなかった大人と子供の一線に。
学園を出てからずっと自分がエースと同じだけの重荷を背負えているのか不安だった。だけど今、私たちは同じナイフで、それぞれの身体に同じだけの傷をつけた。じゅくじゅくと痛むその傷が瘡蓋になって綺麗に治ることなんてないように、これからは一人で、何度も何度もその傷を抉り返しては、決して治らない痕を残すのだ。
それが、小さなベッドで抱き合って泣きじゃくる子供でしかあれなかった私たちの見つけたせめてもの抵抗だった。






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