みつけてなんて言ってない

あれは、空が青く澄んだ日だった。
薄く伸びた雲はゆっくりと風に流されて、太陽は燦然と眩い光を降り注いでいる。素朴な蝶がひらりと、花壇に植えられたハマナスの上を舞う。
そんなキラキラとした光景にしばらく目を奪われ、そこでふと思い立ってスマホのカメラを起動する。カシャカシャとそんな風景の写真を撮っていると、背後に人の気配を感じて振り返った。

「ジャミル先輩」
「何をしているのかと思えば、写真か」
「綺麗だったんで、このままもう見れなくなるのはもったいないなって 」

スマホをいじって、特に上手く撮れた写真を見せる。それを見たジャミル先輩が、瞳をやわらかく細めて、口を開いた。

「君の瞳に映る世界はこんなに綺麗なんだな」

優しいその声を聞いたとき、胸の中が喜びとか幸せでざわざわと騒いだ。そうか、こうすれば私の見ているものをジャミル先輩に見てもらえるのだと気づいて、もっと見て欲しくなった。
昼休みの中庭、木々の葉が青々と茂り始めた夏の予感とともに、あの日、私の人生もまた大きく変わったのだと確信した。





──ピピピ





聞きなれた電子音が夢の世界から私を無理やりに連れ戻す。
布団から手だけを伸ばし、スマホのアラームを切ったあと、しばしの微睡みを堪能する。
身体の奥に芯のように残る夢の面影。なんだかとても懐かしい夢を見た気がするのだけど、もう思い出すことは出来なかった。

「……よしっ」

ひとつ気合を入れてベッドから起き上がる。
腕を伸ばして簡単なストレッチをしながら、窓まで近づく。カーテンから漏れ出す光だけでも十分に分かる強い日差し。今日はきっと暑くなるんだろうなと思いながら、カーテンを開いて、窓から眼下の街を眺める。

朝市の行われるバザーには多くの人が行き交い、活気に溢れた賑わいを見せている。生活の過酷な土地ほど、そこに住む人の表情は明るく豊かだ。それは、ここ数年、世界中を旅して身をもって実感してきた。
瞳を細めて、遠い地平線を眺める。ギラギラと照りつける太陽も、この祝祭のような朝の喧騒も、もうだいぶ慣れてきた。

くるりと振り返ってホテルの室内を眺める。歯を磨いて顔を洗って、今日一日の段取りをさらう。今日の目的地は東の砂漠だ。荒々しい岩肌とどこまでも続く砂の大地を写真におさめる。
慣れ親しんだ道具たちを背負ってホテルから出れば、乾いた風が頬を撫でた。
熱砂の国のやってきて、1週間目の朝が始まったのだ。







■□■□







「あら、ナマエ。おはよう。今日はどれにする?」
「おはよう。んー、オススメは?」

ホテルを出てから毎日向かう朝市で、もうすっかり顔なじみとなった店をのぞくと、店主が人いい笑顔を浮かべて迎えてくれる。カゴに並べられたたくさんの果物や、彼女が作っているというパンやスープ、果実のジャムは今日もどれも色鮮やかで美味しそうだ。

「全部美味しいよ」
「えー、迷っちゃうなぁ。じゃあ、これ」
「はいよ」

コインと引き換えにザクロのジャムの挟まれたサンドイッチを受け取る。「ありがとう」と笑えば、その大きな口もまたにっこりと弧を描く。
こういうとき、人と人の繋がりはやはり大切なものだなと実感する。この世界に来てから、私は根のない草であったぶん、とても多くの人に助けられて生きてきた自覚はある。それに何か返せているだろうかと思うけれど、そんなものを求められているわけでもないことも分かっている。

手を振って店をあとにし、歩きながらサンドイッチをかじる。数日前に写真を撮らせてもらった子供たちが楽しそうに走り回り、通りがかりの屋台の店主が「今日はどこに行くんだい?」と声をかけてくれる。
本当に素敵な街だと思う。人が生きていて、街も生きている。だけど、この人の波の中にどうしてもあの面影を探してしまう自分がいることにも気づいている。

世界中を旅しながら、ついこの国を後回しにしてしまっていたのは、ここにジャミル先輩が暮らしているからだ。ジャミル先輩が卒業してから、私たちが会うこともなくなり、連絡も時折思い出したかのように元気出いるかと聞かれるくらい。
学生時代にどんなに仲が良かったからといって、私たちは所詮はただの先輩と後輩なのだから、仕方の無いことだとは思っている。私の卒業を控えた頃、『卒業後はどうするか決まっているのか?』と連絡が来て、『旅に出ます』と答えてから連絡の手段はすべて捨て去った。
だって、ジャミル先輩に残す未練は、この写真だけでいいのだから。


そんなことを考えているうちに、目の前に目的の店が見えてくる。路地の裏にひっそりと佇むアンティークの雑貨を扱うお店。

「やあ、いらっしゃい」
「おはようございます」

カランカランとベルの鳴るドアを開くと、本を読みながら煙草を吸っていたおじいさんが顔を上げる。独特なお香のかおりが漂う店内には、国内外から集められた様々な小物がまるで眠っているかのように置かれていて、見ているだけでも楽しい。
そんな店内の片隅、視線が壁にかけられた一枚の写真。賢者の島の海岸。

「そういえば、昨日その写真について聞かれたよ」
「え?本当ですか?」
「ああ、だからこの店によく来る旅の写真家が撮ったものさと話したら、随分と長いこと眺めて行ったよ」

へえ、と相槌を打ちながら話を聞く。この写真は、初めてこの店を訪れた時、写真と交換にひとつ好きな物を持っていっていいよと言ってくれた粋なはからいで、この店に飾らせてもらっている。
淡く靄のかかった朝の海岸の写真は、この時代に置いていかれた小物に紛れて、同じように取り残されていくのだと思ったら、なんだかとても愉快な気がした。



しばらく店内を眺めたり、おじいさんと何気ない会話を楽しんでいるうちに、すっかり時間が経ってしまった。

「それじゃあ、そろそろ行きますね。また」
「ああ、砂漠に行くなら気をつけるんだよ」
「ふふふ、もうみんなに言われてきました」
「そりゃそうさ」

入ってきたときと同じベルの音を聞きながら、店の外に出ると店内が薄暗かったせいで、一瞬その明るさに目が馴染むのが遅れた。ギラギラと照りつける太陽、通りの人だかりはさっきよりも落ち着きを増した気がする。
背中のリュックをもう一度背負いなおして、東の砂漠に向かおうと足を踏み出す。そのとき、はっきりと私の名を呼ぶ懐かしい声が耳に届いた。
逆光ではっきりと顔は見えないけれど、聞き間違えようもない声。

「ジャミル先輩?」






○ ○ ○


back : silent film