「どうしてここに?」
「それは俺のセリフだ。どうして急に連絡を絶ったんだ」
「旅に出るって言ったじゃないですか。身軽になろうと思って」
はっきりと怒気のこもった言葉に、臆するでもなくそう答えれば、それ以上ジャミル先輩は何も言わなかった。もしかしたら、言えなかったのかもしれない。私がジャミル先輩を縛れないように、ジャミル先輩だって私を掴めない。
私たちにはそんなことを許される関係の名前はないから。
「写真見てたの、やっぱりジャミル先輩だったんですね」
「……ああ、一目見てすぐにわかったよ。君の写真だって」
さっき聞いた話をすれば、一瞬なんのことかと呆けた表情をしたジャミル先輩が納得したように頷く。
「それで、こうやって会いに来てくれたんですか」
「毎朝この店に来ると言っていたからな。会えてよかったよ」
心底安心したように言うものだから、つい言葉に困る。だから敢えて言葉にするのはやめて、へらりとだけ笑って済ませた。
まだ何か話したげだったジャミル先輩が、ちらりと時計を確認する。
「すまない、今日はゆっくり時間を取れなくて」
「あ、いいですよ。私もそろそろ砂漠に向かわないと、撮り逃しちゃう」
「砂漠?いいか、君……」
「気をつけるんだ、でしょ?分かってますよ」
もう耳にたこができるほど言われた言葉を、ジャミル先輩が口にしようとしていたから、先回りして言ってしまう。すると、むっと少し怒ったように言葉に詰まったようだったけれど、すぐに諦めて大きなため息をついた。
「カリムもナマエに会いたがるよ」
「そうですね……じゃあ、また今度」
この大きな街で、溢れかえる人の中で、偶然巡り会った私たちに今度なんてあるのかなと思いながら、ぺこりと頭を下げて踵を返す。
その瞬間、ぐいっと腕を引っ張られて、バランスを崩すように振り返った。
「今の連絡先は?」
ああ、そうか、と今そのことに気がついたというフリをした微笑みには、ジャミル先輩は気が付かない。
その日の夜、外で夕食を済ませ、ホテルに戻ってから今日撮った写真を整理する。
太陽に照らされ黄金色に輝く果てのない砂の大地と、青いペンキをこぼしたような空の境目は、はっきりとしたコントラストを描いている。
ふと、机の端に置いた古びた日記帳を手に取る。最初のページはまだ学生だった頃。それから毎日ではないけれど書き続けてきた日記は、もうすぐに最後のページをむかえようとしている。
そこに挟まれた一枚の写真。初めて自分のカメラを手に入れた日、真っ先に撮りに行ったジャミル先輩。
その少し照れたようなはにかんだ微笑みと、今日のジャミル先輩を頭の中で重ね合わせる。トクリ、トクリと胸が鼓動を刻んで、口からはため息なのか吐息なのか自分でも分からない、深い呼吸が漏れた。
そのとき、ベッドに放り投げていたスマホが着信音を響かせて、思わず椅子から飛び上がる。誰からだろうと思いながらその画面を確認して、思わず息をのむ。
「もしもし」
『ああ、今大丈夫か?』
「はい、もうホテルなので」
朝に聞いたばかりのはずのジャミル先輩の声が、心地よく鼓膜に馴染む。スマホを片手に移動し、窓に身体を預けるように寄りかかる。背中から、ガラス越しの冷たい夜の温度がじわりと滲む。
『ナマエに会ったことをカリムに話したら、明日一緒に出掛けてこいと言うんだが、君の予定は?』
「明日は特に……街を散策しながら写真を撮ろうかと思っていたくらいで」
基本的に滞在する国での予定は、なんとなくしか決めていない。天候やイベントによっては変えられないこともあるけど、そうでもなければ気が向くままにな生活だ。
『じゃあ、決まりだな。俺が案内しよう』
カリム先輩も会いたがってくれているとのことで、朝にまず私がアジーム家の御屋敷を訪ねることになった。
時間やその他は基本的にジャミル先輩にまかせること、そんな確認を済ませて電話を切った後、ずるずるとそのまましゃがみこむ。
頭の中にこびりついたように消えてくれない「おやすみ」の声。まるで、あの頃に戻ったみたいだと錯覚しそうになる。
だけど、分かっている。時間は戻ったりしない。ほんの一瞬の刹那だから、美しくて、かけがえのない。そんな瞬間をいつでも愛せるように、私は小さな四角の中に閉じ込めているんじゃないか。