ぼくは永遠を選んだ

次の日の朝、約束通りにカリム先輩のおうちに向かう。場所はジャミル先輩が教えてくれたけれど、実はすでにだいたいの場所は知っていて、敢えて避けていた街の中心街の一角。そこにそびえ立つ大きな御屋敷を仰ぎ見ながら、少し腰が引けていると、門の向こうから現れたジャミル先輩に引きずるようにカリム先輩の待つ部屋へと連れていかれた。

久しぶりに会うカリム先輩も相変わらず太陽みたいな笑顔で、明るく私を歓迎してくれた。だけど、そのおおらかさの裏に厳かさも見えるようになったのは、カリム先輩が大人になったからだろうか。それとも、私がこの国を、あの砂漠を目にしたからだろうか。
遮るものなくすべてを受け入れ、そして同時にすべてを拒絶するような砂漠の過酷さ。この国で生まれ、そして生きていく人には、そんな精神が見て取れるような気がする。

それからお屋敷を出て、ジャミル先輩が街の中を案内してくれた。
もうそれなりに歩き回ったつもりではいたけど、やはり一週間やそこら滞在した程度のよそ者には、知らなかったもの、近づきにくい場所、見つけられないようなあれこれがたくさんあって、夢中でカメラを向けた。

「わあ、美味しい」
「そうだろう?」

そして今、ジャミル先輩がオススメだというお店で少し遅めのお昼を食べている。豆を煮込んだカレーは、スパイスがきいていながらもまろやかで、とても食べやすい。

「君は世界中を旅しているんだってな」
「はい、卒業してからずっとなんで、もうそれなりの数の国に行きましたよ」

適当に国の名前を挙げていくと、ジャミル先輩から感嘆の声が零れる。いつだったか、ジャミル先輩が色々な国に行ってみたいと言っていたことを思い出す。

「まさか、ナマエがこんなふうになるとは思わなかったよ。撮った写真は何かで発表しているのか?」
「雑誌や、小説の表紙とか、広告とか……あと、今度写真集を出すことも決まりました」
「へえ、すごいな」
「でも、名前は出してないから、気付かないかもしれないですね」

何気なくそう口にすれば、ジャミル先輩が眉をひそめた。食べ終わったカレーの器にスプーンを置いて、困ったようにへらりと笑って見せる。

「私は、名前のない写真家なんです」
「どうして?」
「うーん、上手く言えないんですけど、なんだか素敵じゃないですか?私の世界に、名前のない芸術家がいたから、そのまねごとなのかも」

うーんと首を傾げながら話せば、呆れたようにジャミル先輩は笑ってくれる。その笑顔は紛れもなくジャミル先輩で、だけどやはりあの写真とは変わってしまっている。変われていないのは、ずっと私だけ。

「この後はどうする?どこか行ってみたいところはあるか?」
「あ、実はひとつあって……夜の砂漠を見に行きたいです」





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あたり一面見渡す限りの砂が広がる。
昼間の砂漠とは一転して、暗い闇にのまれた砂漠は、月明かりと星影の他に頼りはない。この場所で迷子になってしまえば、もう二度とこの荒野から戻って来ることは出来ないのではないかという不安。それと同時に、この場所はひどく厳格で神聖なのだという神秘。砂漠と夜の胎内に孕まれた、途方もない時間の流れ。

「寒くないか」
「はい、大丈夫です」

吐いた息が白く染まる。砂漠の夜はとても寒いからと着込んできたコートの前を合わせながら、夜空を見上げる。その冷えた空気と遮るもののない視界は、夜空に無数の星をきらめかせている。闇にのまれて地平線は見えなく、私たちを包み込むすべてが夜空そのものと化す。
まるで宇宙の真ん中に立っているかのように。ここは私たちだけの惑星なのではないかというように。

「君はどうして写真を撮ろうとしたんだ」

数歩後ろでランタンを手に持ったジャミル先輩を振り返る。
ジャミル先輩は、あの日、私に向けた何気ない一言を覚えてはいない。当たり前だ。それくらい些細な日常だった。
小さな蝶の羽ばたきが、どこか遠い大陸で嵐を巻き起こすという話を聞いたことがあるけど、あの中庭で私の目の前を舞っていた蝶もまた、長い時間を経て私という人生に大きな風を吹かせたのかもしれない。

「昼間の私が名前を出さない理由。あの時はちょっと恥ずかしくて言えなかったんですけど、ちゃんと理由があって、私はまだね、元の世界に戻るのを諦めたわけじゃないんです」

暗くて、頼りないランタンの灯りだけじゃ、はっきりとはジャミル先輩の表情は見て取れないのに、その真剣な眼差しと息遣いを想像できるような気がした。

「いつかこの世界からいなくなる私が、この世界に残していけるもの」

一瞬、強い風が吹いて砂をさらう。三脚に置かれたカメラは、ゆっくりと満天の星空を閉じ込める。

「それは名前じゃなくて、私の想いの詰まった写真だったらいいなって。私は、こんな世界を見てたんだって、気づいてくれたらいいなって」

そう言い終わると、突然ランタンの火が消えて、いっそう闇が濃くなる。驚いている私の腕を掴んだジャミル先輩の手。冷えた空気のせいで、その熱が余計に鮮烈に伝わって来るような気がした。

「この国で暮らさないか。この国から旅に出て、またこの国を帰ってくる場所にしないか?」

あの日、本当はそう伝えるつもりだった、軋むように吐き出された声。それはとても透明で、どうしようもないくらいに儚い言葉だった。

「ジャミル先輩は、私をどう思っているんですか」

突き刺すように吐き出した言葉にジャミル先輩は何も答えない。ジャミル先輩は私を好きだとは言わない。私も好きだとは言わない。それは昔から変わらない約束のようなものだった。
いつかこの世界から消えたい私と、世界中を旅したいジャミル先輩は、お互いの灯台守ではあれど、楔になってはならないと思っていた。

「考えておきますね」

これは、私たちだけの覚悟で勝負。そんなすべてを捨て去ってでも、欲しいと思われたのなら私の長い旅も終わるのだろうという泡沫の夢。






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机の上にペンを置き、深く息を吐き出す。
この国らしい幾何学の模様の印刷されたアンティークの便箋は、私の写真と交換に雑貨屋で貰ったものだった。
机に並べた、今日撮った夜空の写真、古びた日記帳、そしてこの手紙。
明日、これらを雑貨屋のおじいさんに託し、私はこの国を去る。もともと、この旅の終わりはこうして締めくくるつもりだった。今日、こうしてジャミル先輩と出掛けられたことこそ、奇跡みたいな偶然だった。
運命の巡りあわせ、神様のいたずら、それとも優しさ。

なんにしろ、これが最後の邂逅、これから先、私たちの人生が再び重なり合うことは、もうないのだろう。




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