もう二度とほどけないように

街を歩きながら、本屋のショーウィンドウの前で思わず足を止めた。
二年前に発売した私の写真集が飾られている。タイトルも何もなく、ただ星空の写真だけの表紙。この本をどれだけの人が手に取ってくれたかは知らないけれど、こうして日常の折にふと出会うとなかなか感慨深い。

(……ジャミル先輩にも届いただろうか)

私は結局、まだ元の世界には帰れず、あれからも旅を続けている。それなりに仕事は順調で、この本がきっかけで少しだけ仕事も増えた。もうすぐ二冊目という話も出ているくらいだ。
ガラス越しにつん、と本の表紙をなぞる。この本をここに飾ってくれた人は、私の写真を見て、何か感じてくれただろうか。私の撮る写真がすべて、たったひとりに向けた愛の言葉だと、気づいたりはしただろうか。

そのとき、もう片方の手を引かれた勢いに驚いて顔を上げる。

「やっと見つけたぞ」
「……嘘」

視界の端のガラスには、呆然とした表情の私が映っている。だけど、それも無理はない。だって、今目の前にいるのはもう二度と会うことはないと思ったジャミル先輩なんだから。

「どうして、ここが」
「本当に大変だったよ。使えるものは全部使って、やっと君に辿り着いた」

アジーム家に出入りする人、学生時代の繋がり、そんな列挙を聞きながら、やっと今起きていることが現実なんだという実感がわいてくる。
街を行き交う人は、そんな私たちになんて気にも止めず歩き去っていく。砂漠とは違い、多くのものに遮られた狭い空。

「ほら、これ」

ジャミル先輩から渡されたのは、手紙とともに残していった古い日記帳。
そのページをおそるおそるめくる。学園を卒業してから巡った様々な場所、そこへ置いて来たはずの写真たち。

「学園の誰かに渡しておくならまだしも、全く知らない店や人に預けるのは勘弁してくれ……捜し当てるのにかなり骨が折れた」

そういえば日記では、お菓子が美味しかったお店とか、花の綺麗な庭のお家のおばさんとか、そんなことしか書かなかった日もあったかもしれない。
そんなヒントを頼りにジャミル先輩は世界中を巡ったのだ。

「もっと、時間がかかると思ってました」
「ナマエがいなくなったことに気づいて、まずあの店に行って、これを受け取った。そうしたらカリムがすぐに行けって」

そうやって回想する表情は、仕えるべき主人を思うのではなく、旧友へのそれだ。なんだかそんなふたりの様子が目に浮かぶようで、つい口元が緩む。

「どうでした、一人旅」
「思っていたものとはだいぶ違ったけどな。だけど、確かに世界の広さを知れた」

そこでその瞳がじっと私をとらえる。私も、目をそらさずジャミル先輩を見つめた。街の喧騒がまるで私たちだけを避けるように遠ざかっているような気がする。

「だけど、まだ全部じゃない。最後の一枚は君が持っているんだろう?」

こくりと頷いて、背負っていたリュックから取り出した一枚の写真。
足りない最初のページの欠片。初めてカメラを手に入れた日に撮ったジャミル先輩の写真。
それを受け取ったジャミル先輩が、懐かしそうに瞳を細める。

「俺の負けだよ。君の思惑通り、こうして写真を見る度にナマエのことを思い出した。だけど」

その瞬間、ぐいっと身体を引き寄せられる。次の瞬間にはもうジャミル先輩の腕の中にいた。

「愛してた、なんて思ってやるものか。ずっと愛しているさ」

耳元で囁かれる切実な声音。その声に、ここが街中であることも忘れて、精一杯にジャミル先輩の背中に腕を回した。ふっと安心したような笑みの吐息。

「早くしないと手遅れになるんじゃないかって気が気じゃなかったよ。次はもっと気楽に旅がしたい」
「……そのときは、私も一緒に?」

抱きしめられた身体を少し反らして、顔を上げる。ジャミル先輩が驚いたように一瞬目を丸くして、それから少し照れたように顔を背けた。

「当たり前だ。君の欠片は全部、俺が集めたんだ。それならその結晶のナマエは俺のものだろう」

泡沫のような長い旅、それが今ここで終わりを迎えたのだ。
そしてまた、新しい旅に出る。私を抱きしめるその手を握りながら。






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