目の前に広がるのは宇宙だった。
夜空に瞬く満天の星がすべて海に映りこんでいる。そのひとつを掴んでみたくて、そっと海の中に手を入れてみるけど、当然ながら波紋を描くだけで何も掴めはしない。夢なのだ。これは全部、宇宙になりたかった海が見た夢。私は今、そんな夢の中にいる。

「綺麗ですね」
「喜んでいただけたようで良かったです」

隣に並んで海を見下ろすジェイド先輩が控えめに笑う。
すべての授業が終わったあと、珍しく私の教室までやって来たジェイド先輩に今夜の予定を聞かれたときは、てっきりラウンジの手伝いに借り出されるのだと思ったけど、連れて来られたのは学園からは少し離れたところにある海。

「泳いでみますか?」
「え、ここをですか?」
「ほら、お手をどうぞ」

手を引かれて、制服のまま一歩一歩海の中を歩いていく。夜の海はまったく底が見えなくて少し怖い。だけど、ジェイド先輩と繋がれた手がある限り、どんな暗闇だろうと歩いていくしかないことを私は知っている。
胸のあたりまで海水に浸かったとき、急に手を強く引かれた。その勢いで踏み出した足の先には、続くはずだった地面は急になくなって、私はそのまま海の中に引きずり込まれる。

ばしゃん

突然のことに、溺れるみたいに水の中でもがく。昼間の海に潜ったことは何度もあるけど、夜の海の中は初めてだった。光のない世界、身体の自由がきかず、冷たい海水が身体にまとわりつく。怖い、怖い。こぽこぽと口から漏れ出す酸素の泡の隙間で、必死に救いの手を探す。
そのとき、ふいに身体を抱き寄せられて、沈んでいくと思っていた水中を引き上げられる。はあっと海面から顔を出すと同時に、肺が酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。

「び、びっくりしました」
「ああ、すみません」
「……絶対、思ってないじゃないですか」

クスクスと笑っているジェイド先輩は、あの場所で急に海が深くなることを知っていたのだろう。むすっと頬を膨らませて睨んでみるけど、その笑顔の前には無意味であることは分かっている。
もう自分で泳ぐのは諦めて、そのまま身体をジェイド先輩に委ねる。空を見上げると、さっきよりも星を近くに感じる気がした。それはきっと、私が今この海の一部となっているからだろう。見渡す限りの海が映した星屑たち。

「宇宙の中まで来ちゃったみたいですね」
「いいえ、この先にあるのは冷たい海の底ですよ。人間のあなたには、あまりにも暮らしにくい場所」

へらっと笑った私の言葉は、冷たく否定される。ジェイド先輩は言わんとしていることは分かっている。卒業後、私はジェイド先輩と一緒に海の中で暮らすことを決めている。足は捨てずに人間のまま、それでも海で暮らしたいと言った私に、アズール先輩は無謀だといい、フロイド先輩は私を死にたがりと呼んだ。

「いいんです。ジェイド先輩がいてくれるなら、私は喜んでどこへだってついて行く。私のすべてはジェイド先輩のものだから、私は私のままで」

満天の星に埋め尽くされた夜空から、すうっと視線をそらしてジェイド先輩を見る。色の違う瞳に私が映る。そこに宿る感情は上手く読み取れない。ジェイド先輩は私の決断について肯定も否定もしなかった。言っても無駄だと思っているのか、ジェイド先輩自身も私を連れていくことを望んでくれているのか。分からないというより、分からないままでいたいのだと思う。

この世界に来た日から、ジェイド先輩は私の神様だ。広い海で漂流するかのように元いた世界から放り投げられてしまったとき、無意識に何か生きがいを探したのだろう。この出会いを奇跡と名付けて、私の身体も魂も神に捧げるものだと定義した。私が生きるのはジェイド先輩に愛されるため、私が死ぬのはジェイド先輩に愛されたから。
そんなことを考えていると、不意にその綺麗な瞳が近づいて、気がつけば唇と唇が重なっていた。

「しょっぱくて甘い、海と星の味のキスですね」
「そのうち、この味にも何も感じなくなりますよ」

ただしょっぱいだけではないこの味は、きっと星が溶けてしまったせいだ。水面に夜空を映した海を宇宙と間違えて飛び込んでしまった星。それが溺れ死んで、少しずつ少しずつこの海とひとつになる。
いずれ私が住むことになる深海は、光は届かず真っ暗なのだろう。私はそこでだんだん視力を失って、こうして抱き寄せてくれる腕の感触だけを頼りに生きていく。だから、この手を離されたとき、私は簡単に死んでしまうんだろう。沈んでいることさえ分からないような暗闇の果て、星屑の死骸が溶け続ける海底へ、ジェイド先輩次第で私はいつだって突き落とされる。それが私は、とてもうれしい。







私の愛は殉教で、あなたの愛は不透明





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