今日はいつもより暖かいなと思って散歩をしていると、すっかり葉の落ちた姿にも見なれた木々の枝の先にわずかな膨らみがあることに気がついた。まだ開花には程遠い様子ではあるものの、刻々と春は近づいているのだと納得するように、私の口からふうっと白い息が漏れる。

「……小さな蕾」

冬の寒さにも負けじと春を待つその健気さに胸を打たれながら、それでもこの木の名前もどんな花を咲かせるかも思い出せない。レオナ先輩に言われるがままこの国に移り住み、こうして王宮で自由に生活させてもらうようになってから、もう一年以上が経っている。だから、去年の春にはこの木が花を咲かせている姿を見たはずなのだ。それなのに、どうしても私の記憶にはその断片が見つからない。

「そんな木なんか見上げてどうかしたか」

ガサガサと霜が降りて凍った枯葉を踏みつける音と共に現れたのはレオナ先輩だった。早朝、まだ朝の緊張感がほどけきらない時間に散歩をする私の日課にレオナ先輩が混じることはほとんどないのに、今朝は珍しく目覚めがよかったらしい。
まるでこの場所だけで世界が完結しているような王宮の庭。ここにこれだけの植物を生やすことにしたのは誰かの趣味なのか、それとも王族っていうのはこういった庭を持っていなくてはいけないものなのか、そういうことは知らないけれどこの庭園はこの国に来てからずっと私のお気に入りの場所だ。

「蕾があるんですけど、どんな花が咲くんだったっけと思って」
「あ?……あー、なんか白い花だろ。去年この花が好きだって騒いでた」

一瞬眉をひそめたレオナ先輩が、私の吐いた白い息を追うように枝の先にを見上げて、それからなんてことないようにそう言った。いつのまにか空がどんどん明るくなっていて、ほのかにその青さを増す。そんな世界でも、レオナ先輩はただ何にも溶け込まずに美しかった。
その姿を見つめながら、私の胸には澱と呼ぶほど形は保てておらず、だけど何も無いというには濁りすぎている感情が込み上げ始める。

「よく覚えてますね」
「お前が好きだって言ってたからな」
「私が好きだから、覚えていてくれるんですか?」

そう尋ねれば、レオナ先輩は何も言わず、ただフッと笑った。それが肯定の意味だということは知っているし、そう言われなくともレオナ先輩が私のことを愛してくれていることは分かっている。

「私もレオナ先輩のことを好きだとは思うんです。でも、私の好きって空っぽなのかもしれない」

卒業してからもずっと先輩呼びが抜けないことをよく思わない人がいることも、私たちの関係は一応恋人ということになっていながらも、これからの話がまだ何も進んでいないことを影で笑う人がいることも知っている。
だけど、私の気持ちはずっとあの学園生活の延長線上のまま、あと一歩が踏み出せない。

「この花を好きだって言ったはずなのに思い出せなくて、それって結局、綺麗な瞬間を好きなだけなんです」

こんなふうに葉を落として、枝だけになってしまえば他の木との見分けもつかない。そんな中身の伴わない浅はかな愛。
この世界に来てからずっと、私はレオナ先輩のことを美しいものとして分類している。一目惚れというよりも、妄執するようにその姿に目を奪われて、気がつけばここまで来てしまった。
崇拝するように遠くから見ていればよかったものを、手なんか伸ばしてしまったものだから、思いがけず掬いあげられてしまった。

「私は自信が無いんです。レオナ先輩へのこの気持ちが本当に愛なのか」

だって、こんなふうに誰かを思ったことなんてないのだから。私の知っている愛は、浅はかでも別に構わないものだったのに、目の前にいるのはそれとまるで違う種類のものなのだ。
もしも、神様を信じているとして、毎日その人に愛の言葉を捧げるとする。そうしたらある日、私も愛しているから結婚しようと言われるのだ。それに戸惑う修道女だって、きっといるんじゃないだろうか。
私の胸にあるのはそんな不安で、愛と信仰の違いも分からないままその手を取れずにいる。いつかこれは愛ではなかった、ただの信仰なのだと気づいてしまった時が怖いから。その恐ろしさを思えば、どんなに後ろ指をさされようと足が動かない。

「別にどっちでもいいだろ」
「え?」

欠伸をかみ殺しながら、退屈そうにレオナ先輩が言うものだから思わず素っ頓狂な声が出る。この話をするとき、もっと冷たく空気が凍るのだと覚悟していたのに、レオナ先輩はいつもの私とのお喋りと変わらない様子で話し続ける。

「その花だって、ずっと咲いてりゃお前は好きなままなんだろ」
「……そう、ですね」
「それなら咲いてられねぇ、その花が悪いんだよ」

上手く言葉を飲み込めず、キョトンと瞬きをするだけの私に呆れたようにため息をついたレオナ先輩が近づいて、すっと頬を撫でた。

「愛だろうが信仰だろうが、お前が俺を好きなことには変わりねぇって言ってんだよ」

そう私を見下ろすように目を細めてから、すぐに「寒ぃ、部屋戻って寝直すぞ」と言って歩いていってしまう。その背中を追うように走る私の足からは、ゆるやかに迷いが消えていく。








私の愛は臆病で、あなたの愛は透徹





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