水槽に映る室内の照明がわずかな水の流れでゆらゆらと揺らめく。決して濁ることのない水の中で、ここが海だと信じてやまない哀れな魚が一匹泡を吹いた。
「……ええ、ええ。はい、今日のところは、はい。それでは」
ガチャン、と受話器を置いてからも、耳には機械越しの人の声がまとわりついているような気がする。水槽を循環する空気の音と小さな耳鳴り。
そんなことを考えていたら、ちょうどアズール先輩が戻ってきた。私が電話の対応をしていたから代わりにホールに出ていてくれたんだろう。ちらりと見た時計の針は、もうとっくに閉店時間を過ぎている。
「随分と長いこと話していましたがクレームでしたか?」
「いいえ、宗教勧誘の迷惑電話でした」
「はあ?それをわざわざあんなに丁寧に対応していたんですか?」
気遣うように私を見ていた瞳が、途端に驚きと呆れの色に変わる。それから信じられないとでも言うように額に手を当てながら、大きなため息が吐き出される。
「しっかりしてくださいよ。時給が発生してるんですからね」
「ごめんなさい。でも、一生懸命話してたから」
「あなたの仕事は一生懸命に注文を聞くことです」
その通りすぎて返す言葉もない。もう一度だけ小さな声で謝れば、「もういいですよ」と許された。デスクで帳簿の確認を始めたアズール先輩の近くのソファに私も腰をかける。
柔らかいクッションにうずまりながら、さっきまで聞いていた神様の話が自然と頭の中で再生される。この世界で、神様の起こした奇跡や裁かれた者たち。それから、世界が滅亡する日のこと。どこの世界でも神様がやることは同じで、そして結局は結末も同じ。
「信じるものは、救われるんだそうですよ」
「まったくもってくだらない」
「アズール先輩は神様なんて信じてなさそうですよね」
「信じませんよ。そんな金にならないもの」
紙の上の数字を追っていた瞳が、ふっと私に向けられる。
「あなただって、信じていないでしょう」
「まあ、信じてないですね」
水槽の中では数匹の魚の群れが端まで泳ぎきっては、また折り返し、同じことを繰り返す。なんて小さな世界。どこまで泳いでも世界の果てはすぐにやってくる。
「でも、いいな、と思って。あんなに無邪気に神様を信じられたらきっと、とっても生きやすい」
「そうですか?戒律や信仰に縛られて節制するだけの暮らしですよ。自由なんかじゃない」
「それがいいんじゃないですか。それさえ信じていれば何も考えずに救われたと思い込める。羨ましい」
ぼんやりと上を見つめていると、キィと椅子の引く音が聞こえた。無機質な天井だけだった視界に、綺麗な紫色が現れる。
「……そう言いながら、まるで憐れなものでも見るような目ですよ」
優しく髪を撫でてくれるその手に、甘えるようにすりつく。今日の仕事は一段落したのだろう。それならあとは恋人としての時間だ。
「もしも、神様か、私たちの愛の永遠か、どちらかを信じなきゃいけないとしたらどっちにしますか?」
「なんですか、その何の意味もない質問は」
「んー、特に意味もないんですけどね」
へらりと笑ってみせてから、それでも光の反射する浅瀬の海のような双眸から目は離さない。しばらく黙って見つめ合い、そのうち観念したようにアズール先輩が溜め息を吐いた。
「神様とやらでしょうね。その方がまだ現実的だ」
「えー、ひどい」
「あなたは、どうせ僕を忘れるでしょう。そして、安っぽい恋をして、その男と信じてもない愛を誓う」
決まりきったつまらない映画のあらすじでも読むように単調な声。だから私も、あらかじめ用意されたセリフを歌うように口にする。
「だって、その方が、生きやすいですから」
こぽり、と泡のはじける音がする。水槽の中のポンプの泡に交じって、その息苦しさに耐えきれなくなった魚が吐き出した泡。
水槽の魚。あの中にも、本当はここが海ではないことに気づいている魚もいるのだ。だけど、わざと無知なフリをしている。白い魚の群れで自分だけが黒だとバレないように。
「アズール先輩だって、どうせ都合のいい女と結婚しますよ」
「もちろん、その方が生きやすいですから」
私はきっといつか元の世界に戻るだろう。神様なんかに願う隙もないくらい世界の秩序がそう決めている。だから私とアズール先輩は、この恋が一時の幻想であり、その上で恋人という関係になることを約束した。私が元の世界に帰れば、それで私たちの関係はなにもなかったことになる、ただ都合のいい恋人ごっこ。
だけど本当は、毎晩のようにどうか明日も二人が恋人であれることを祈っている。祈る神も知らないくせに、それでも誰かに救って欲しいと縋っている。
本当は手放したくない手を、わざとゆるく握って、傷なんてつくはずもないフリをする。ああ、可哀想だ。ここが永遠だと信じられたら幸せなのに、信じきれずに、そのくせ諦めきれないから生きにくい。
「私は誰だって好きになれるんです」
「ええ、僕もです」
嘘つき。心の中で呟いた言葉は私のことで、同時にアズール先輩のことだ。本当はこの愛がもう決して後戻りも出来ないくらい深く孤独なものだと知りながら、一人で背負っていくことを決めている。
神様さえも無邪気に信じていると言えない口で、いつか消え去る互いのことを本当は愛したまま、そんな愛は知らないと吐いた嘘が、水底の魚の吐いた泡のように弾けては消える。
私の愛は偽物で、あなたの愛だって偽物