この年齢で迷子とか笑えないな、と思いながら木の幹に身体を預けてずるずると座り込む。見上げた空は満開の桜の花に覆われて何色をしているのかも分からない。
随分と歩き回ったせいで足が棒みたいだ。一体、ここに来てからどれくらいの時間が経ったのだろう。

良く考えれば、こんな状況になったのは、そこまで私のせいというわけではない気がする。私はただ寮に帰りたかったのだ。そのために一人で通い慣れた道を歩いていたのに、気がついたら見たこともない場所にいた。

辺り一面に桜の花が咲き乱れていて、一本の小道だけが私の前に続いている。振り返ると数歩後ろには先の一切見えない濃い霧が立ち込めていて、どうやら私に与えられた選択肢は前に進むことしかないのだと理解した。
それからとにかく歩き続けて、ちょっとばかしおかしなこともあったりしたんだけど、それはまあいいや。
風もないのに薄ピンクの花びらはそよそよと舞っては散り続けている。

「桃源郷みたい」

幻想的で美しい場所、というつもりで使ってみたけど、漢字的に桃の花が咲いてなきゃ駄目だろうか。この花たちはどう見ても桜の花なのだけど。
そんな取り留めもないことを考えながら、そろそろ歩きだそうと意気込むも身体が重い。体力はある方だと思っていたけど、歩いても歩いても景色が変わらないというのは結構こたえるのだ。
あと少し、あと少し、と思って休んでいる間に眠くなってきた。このままちょっとだけ眠ってしまおうか。もしかしたらこれは夢の中で、次に目が覚めたらちゃんと元の場所に戻れているかもしれない。




「ナマエ!」
「ひぇっ!」

こくり、こくり、と船を漕ぎ始めていると、突然大きな声が降ってきて肩が跳ね上がる。慌てて顔を上げると不機嫌顔のジャミル先輩が私を見下ろしていた。
なんだ、やっぱりあれは夢だったのか。
一瞬そう思ったけど、相も変わらず辺り一面は桜吹雪だ。ただジャミル先輩が現れただけ。

「なんで、ここに?」
「迎えに来たに決まってるだろ」
「迎え?」
「君が帰ってこないから、グリムが心配して泣きついてきた」

私が元の世界に帰ってしまったと思っているというグリムの話を聞いて、ぎゅーと胸が締め付けられる。もともと別の世界から来た私が突然いなくなれば、そう思われても仕方がないだろう。まさかこんな所で桜まみれになってるなんて、誰が思うものか。

「私、ただ歩いてて、そしたら」
「ああ、わざとじゃないのは分かってるさ。大方、妖精にでも悪戯されたんだろ」

なんとか弁明を試みようとする私を制するように、ジャミル先輩が優しく笑った。そして、「帰るぞ」と手を差し伸べられる。その手を取りながら、帰るという言葉を何度も心の中で繰り返した。

「帰れるんですか?」
「ちゃんと準備はしてきたから、帰り道はわかってる。大丈夫だ」

ああ、こんなにも頼もしい「大丈夫」が他にあるだろうか。手を引かれるだけじゃ物足りなくて、もどかしくて、勢いそのままにジャミル先輩の胸へと飛び込んだ。

「本当は、すごく心細かったんです。もうこのまま、ずっと一人なのかもって」

ここに来てからなるべく考えないようにしていた不安を言葉にして吐露する。そうすることでやっと、堪え続けていた心細さが溶けて消えていくような気がした。
この場所が、私なんかが迷い込んでいい場所じゃないことくらい、とっくに分かっていた。どんなに歩いたところで、この長い一本道の繰り返しは終わらない。それでも歩くのをやめられなかったのは、ただ帰りたかったのだ。

「……ああ、でも、さっき一度だけ人に会いました」
「人?」
「歩いてたら急に道が開けて、大きな池のほとりに出たんです。そこに綺麗な女の人が立ってて」

ぬばたまの、なんて枕詞がぴったりな黒髪を綺麗に結い上げて、上品な翡翠色の生地に、これまた桜の刺繍が施された着物を着ていた。こっちの世界に来てからはずっと元の世界でいうところの西洋っぽい生活に慣れていたものだから、世界観どうなってるんだよって混乱した。

「それで、お腹がすいたでしょうって、真っ赤に熟れた葡萄を一房、差し出してくれたんです」
「まさか!食べたのか?」

慌てるジャミル先輩に思わずクスッと笑ってしまう。

「食べてないですよ。あれを食べたらもうジャミル先輩に会えなくなっちゃうんでしょ?」

異界のものは食べてはいけない。そんな世界中にあるという伝説のことは私だって流石に覚えていた。まあ、本当は葡萄を手に取った瞬間に思い出したのだけど。
喜んで一粒の葡萄を食べようとしたとき、その真っ赤な宝石みたいな色をジャミル先輩にも見せてあげたいなと思った。だから、やっぱり食べるのはやめて首を振ったら着物の女性はとても悲しそうな顔をした。きっと、あれを食べない限りこの桜並木の一本道は終わらないのだろう。
その先に何があるのか、気にならないわけではないけど、どんな理想郷だろうとジャミル先輩の隣ほど素敵な場所があるはずない。

「あれ?安心しました?」
「……ああ、凄くな」

珍しく素直なジャミル先輩が抱きついたままの私の頭を撫でる。まるでちゃんと私がここにいることを確かめるみたいに。
その手のひらの感触を堪能しながら、ふとやっぱりここにジャミル先輩がいるのは変だと気づいた。

「どうして迎えに来てくれたんですか?もしかしたら元の世界に帰ったのかもって思いませんでした?」

グリムは私が元の世界に戻ったと思ってジャミル先輩の所に行ったのだ。それなら、日頃からあれだけ私に帰れと言ってるジャミル先輩だから、「そうか、やっと帰ったか」となりそうなものなのに。
そう尋ねた私に、ジャミル先輩は罰が悪そうに顔を背けた。

「……君が何も言ってこなかったから」

こんな静かな場所じゃなかった聞き取れなかったであろう小さな声で呟かれた言葉。それはちゃんと私の鼓膜を揺らした。

「帰るなら、ちゃんと礼くらい言ってからにしろ」

私のことをぐいっと引き離して、「散々面倒は見てやってるんだ」と怒ったような、照れたような、そんなよく分からない表情で言う。
そして乱暴に私の手を掴んで、ずいずいと歩き出してしまった。これは手を繋いでるというよりは、引きずられているだなと思いながら、それでも私は嬉しくて嬉しくてたまらない。

「帰りませんよ!もし私が何も言わずにいなくなったら、それはまた今日みたいな不本意なときなんで、また迎えに来てくださいね!」

一息で全部言ったせいで酸素が足りなくなる。はぁ、っと息を切らす私にジャミル先輩は何も言ってはくれない。だけど、まんざらでもなく鼻で笑った気配がしたから、それで十分だと思った。
そんな四月の話。





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