空を仰ぐと、どこまでも青い色の中に不格好な雲がひとつ、ふたつ、と漂っている。こうしていると視界は空でいっぱいになるので、なんだかまるで私も空の一部になれたような気がして悪くない。
まだ夏と言うほど暑くはない日差しも、時々吹き抜ける生ぬるい風も、遠くから聞こえてくる名もしれぬ鳥の鳴き声も、絶好のピクニック日和だ。座り込んだ石段の傍らに置いたバスケット。そこに詰め込んだ今日のお昼ご飯を思って、ふふっと肩を揺らす。

「ナマエ」
「わっ!」

急に影がさしたと思ったら、視界の端からジャミル先輩が現れて、驚いた勢いでそのまま後ろにひっくり返りそうになる。

「おい、気をつけろ」
「えー、ジャミル先輩がいきなり登場したせいですよー」

そんな私の背中を支えてくれたジャミル先輩が、呆れたようにため息をつくので、今回ばかりは私に非はないと反抗してみるけど特に反応はもらえなかった。
今日のジャミル先輩は制服ではなくて、少しだけラフな私服姿だ。こうして背後に体重を預けたまま見上げていると、褐色の肌が空の青色に映えて思わず見惚れてしまう。

「……今日も、かっこいいですね」
「ほら、そんなこといいからシャキッとしろ」

背中に当てられた手を揺らされた衝撃ではっと我にかえれば、ジャミル先輩は肩を竦めて、そのまま私の手を引いて立たせてくれる。
ワンピースの裾に着いた土を払っている間に、置いていた荷物を持ってくれたジャミル先輩が石段を降り始めるので、小走りでその後に続いた。
隣に追いついた私を見て、少しだけ口の端を上げたのを見逃しはしなかったけど、それを言うと照れて顔を背けられてしまうだろうので、そっと心の中にだけ留めておく。







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「本当にここでよかったのか?」
「え?」
「中庭なんて、普段の昼食と変わらないだろ」
「変わりますよー!今日は休みの日だし、私たちしかいないし」

中庭の一番日当たりのいい芝生の上にマットを広げる。私のイメージするピクニックはビニールのレジャーシートだったのだけど、流石というか当然というか、ジャミル先輩の持ってきてくれたのは、安っぽいビニールなんかじゃなくて、手触りの良すぎる生地を使った布製のシートだった。
聞くまでもなくお高いのは分かっているけど、散々スカラビアにお邪魔した私は、もうすっかりこの金銭感覚の差にも慣れたものである。今更わざわざ「これ高いですよね?」なんて口にしたりしない。

「どうします?早速お弁当食べます?」

広げたシートの上に荷物を降ろしながら尋ねれば、ジャミル先輩はちらりとスマホで時間を確認する。

「俺はそれでもかまわないが、まだ少し昼には早いけど大丈夫か?」
「あー、じゃあもう少しお腹が空いてからがいいです。実は、お弁当作りながらつまみ食い結構しちゃって」
「それなら、お茶をいれるか」

ジャミル先輩が持ってきた荷物の中からボトルやポット、おそらく茶葉の入っているであろうビンを取り出す。ボトルからポットに水を注ぎ、マジカルペンを振れば、一瞬でお湯へと変化する。そこからは魔法を使うことはなく、慣れた手つきで茶器を扱うジャミル先輩。軽やかなその姿は、私から見ればこれも魔法のようである。
本当に、もう何度もお茶をいれる姿は見たことがあるのに、いつ見たってつい見惚れてしまう。しかも今日は、こんなに晴れ渡った空の下で、私だけのためのお茶だ。

「特別って感じがして、いいですね」
「そうか。ほら、こぼすなよ」

まるで子供相手のような注意をされながら受け取ったマグカップに口をつける。すうっと鼻腔を突き抜けていくような爽やかな柑橘の風味の残るお茶は、この青く青くどこまでも続いていくような空にぴったりだ。

「ふふ、美味しいです」

ジャミル先輩の返事はなかったけど、その横顔は満更でもなさげに口元があがっている。
ちびちびと飲んでいるうちに、空になったカップを置いて、広々としたマットの上に寝転がる。そうしていると、視界の端には、黄色く丸いたんぽぽが揺れているのが見えた。そのまま寝返りを打ち、黄色い花を指でつついてみる。

「まるで猫みたいだな」
「ふな?」
「それはグリムだろ」

さすがに寝転んだりはしていないものの、いつもより寛いだ様子のジャミル先輩が私を見て柔らかく瞳を細めている。
明日の今頃は昼休みの学生でごった返すであろう中庭には今は私たち二人きりしかいない。吹き抜ける初夏の風は夏の気配を連れて草花を揺らす。
風も木々の匂いも、私がいた世界とは差ほど変わりはしないのに、ここはどうしようもないくらい遠い場所なのだ。遠くに行きたい、そう願った私は、本当に遠くに来てしまった。それだけ。

「私が猫だったら可愛がってくれますか?」
「もう十分可愛がってるだろ」

いつもと同じ調子でジャミル先輩に問いかけた言葉は、意外にも肯定の返答で驚いた。てっきり「そんな手のかかる猫はいらない」とか、そういう感じのことを言われると思っていたのに。

「……なんだ」
「いや、可愛がってる自覚があったんだなぁって」
「なっ」

目を見開いたジャミル先輩の頬が一気に赤く染まる。ああ、無意識だったのか。やっぱりいつもより無防備なその様子が嬉しくなって、クスクスと笑いながらジャミル先輩に擦り寄れば、恨めしそうに睨みながらも私の頭を撫でてくれる。

「私は甘やかされてるなって思ってましたよ」
「……世話を焼いてやってるだけだ」
「それが甘やかすってことでしょう?」
「違う……もういいだろ、昼食にしよう」

勘弁してくれと顔を背けたジャミル先輩の耳の先はまだ少し赤みを残している。可愛い、と言いかけた口をぎゅっと噤んで起き上がる。

今日のために作ったお弁当をジャミル先輩はなんと言ってくれるだろう。自分で作った方が美味しいそれを食べて、また優しく笑ってくれるのだろう。
遠くて近い、近くて遠い、そんな私たちの間の距離を漂うように、空には雲が浮かんでいる。
そんな六月の話。







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