「あっ」

石畳にぽつり、ぽつり、と水滴が斑に模様を作り始めたなと思ったら、次の瞬間には激しく地面を叩く雨音がして、まさにバケツをひっくりかえしたような大雨になった。そしてもちろん、私はずぶ濡れだ。

ここ最近は夕立もあまりなかったので傘を持ってくるのを忘れてしまった。雨を凌ぐには学園へと引き返した方が遥かに近いけれど、ここまで濡れてしまっては今さら戻ったところで変わりない気もする。
濡れて額に張り付いた髪の毛を軽く分けて、それならばいざ走ろうと思った時、急に腕を掴まれてバランスを崩す。

「ジャミル先輩!」
「……少し遅かったか」

眉をひそめたジャミル先輩が掴んだままの私の腕を引き寄せて、大きな黒い傘の中へといれてくれる。雨粒がポツポツと弾かれる音を聞きながら、私の髪からは水滴が滴り落ち続ける。それを見たジャミル先輩が鞄からタオルを取り出して、そっと私の頭へと被せた。

有難くそれで髪を拭かせてもらいながら、ぐるりと当たりを見回してみる。今日は別に迷子になったわけでもなく、この道の先にはオンボロ寮があるだけのはずだ。そんな場所にジャミル先輩がいるなんて珍しい。

「何か私に用でもありましたか?」
「いいや、特にはない」

いつもは私がジャミル先輩を探すばかりなので、たまにはこうして会いに来てくれるのも嬉しいなと思ったのだけど、そういうわけではないらしい。それならやっぱりジャミル先輩がこんなに偶然ここのいるなんて不思議だ。
そう思っているのが顔に出ていたのか、ジャミル先輩が大きなため息をついた。

「傘も持っていないのに、こんな雲行きの中帰ろうとしないだろ、普通は」
「……だから、追いかけてきてくれたんですか?」

確かに大きな黒い雲が空に垂れ込めてはいたけれど、傘を持っていないことは変わらないので、まあなんとかなるだろうと気楽に考えていたのは事実だ。
だけどジャミル先輩がここにこうして現れた理由が、私に傘を差し出すためだったとは思いもしなかったので、その意外さにぱちぱちと瞳を瞬かせる。

「なんだ」
「私が傘持ってないの、なんで知ってたんだろうって思って」

今日は残念ながら一日中ジャミル先輩と会う機会はなかったので傘を忘れた話はしていない。素直に疑問に思って口にすると、ジャミル先輩が何か言いにくそうに口をもごつかせた。

「……別に、持っていたら持っていたで、それでいいと思ったんだ」

雨の音にかき消されそうなほど小さな声が耳に届いて、一瞬遅れてその意味を理解する。

「じゃあ、私が傘を持っていなかった時のために追いかけてくれたってことですか?」
「また風邪でも引かれたら困るだろ」

また、というのは三月に私が熱を出したときのことを言ってるんだろう。あのときも、看病に来てとジャミル先輩に頼んだわけではなかったのだけど、と思いながら口にはしない。

「ジャミル先輩は本当に私のことが好きですね!」
「好きじゃない」
「でも、私は好きです!」
「それは知ってるさ」

弱まる気配のない雨が降りしきる中、道にはいくつもの水溜まりができている。それを避けるようにふたりでひとつの傘をさしながら歩くのは、秘密の散歩のようでなんだか嬉しくなってくる。

「このまま寮まで辿りつかなくてもそれでもいいなぁ」
「それは困るだろ。早く帰ってシャワーを浴びろ」

夏の真っ只中で気温は高いものの、雨に濡れた身体は確かに少しひんやりと冷たい。濡れた制服の上から軽く腕を擦っていると、ぐいっと肩を引き寄せられる。

こんなびしょ濡れの私がくっついてはジャミル先輩の制服が濡れてしまう。驚きながらも抵抗をしてみると視線だけで窘められた。その視線に負けて今度は素直に体を預けると、そんなこと気にするなと声には出さず物語る表情と、微かに伝わるジャミル先輩の温かな体温に包まれる。

「ジャミル先輩も雨宿りしていきますよね?」
「してかない。帰ってカリムの夕食の支度があるんだ」

下唇を突き出して、あからさまに不服さを表してみれば少しおかしそうにジャミル先輩が笑う。

「実は今日カレーにしようと思って材料は買ってあるんです。ジャミル先輩の作るカレー美味しいですよね」
「……それが目当てだろう」
「そんなことないですよ!もっとジャミル先輩と一緒にいれたらいいなって思って」

夕食まで一緒とは言わなくても、せめて雨が止むまではいてくれたらいいのに。そんなことを考えていたら、遠く後ろの方で雷鳴が聞こえて思わず振り返る。きっと、この雨雲も、もうすぐに離れていくことだろう。

「カレーは自分で作ってくれ」
「……はーい」
「ただし、三人分だ」
「え?」

思いがけない言葉に驚いて顔を上げれば、仕方ないとでも言うようにジャミル先輩が肩を竦めた。

「一度帰って夕食の支度が終わったらまた来る……それならいいだろ」

うっすらと霧の出ている視界の先にオンボロ寮のシルエットが影のように見えてくる。一度頭の中でジャミル先輩の言葉を繰り返す。そうして、その意味を確かめれば、頬が自然と緩んでいってしまうのは止められない。

「一生懸命作りますね!」
「慌てて作らなくていいから、まずはちゃんとシャワーを浴びて、髪も乾かすのを忘れるなよ」
「はい!」

嬉しくって、このまま雨の中に飛び出してしまいたいくらいだけど、それをするとジャミル先輩に怒られるのでグッと堪える。
あと少しで終わってしまうこの道を、もっと長くとも、早くとも、思うような気持ちで歩いていく。
そんな八月の話。









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