脆くて柔くて危うくて



一際強い風が吹き抜けて空に向けて青々とした葉を伸ばす木々を揺らした。夏真っ盛りの強い日差しに温められた空気は肌にまとわりつくばかりで、風が吹いたところでたいして涼しくもない。
枝葉の隙間から覗き見える青空は濃く、遠くにはまるで絵画のように現実味のない入道雲がそびえ立っている。ぼう、とその光景を仰ぎみていた時、ざりっと砂を踏む音がページワンの耳に届いた。

「お待たせ」
「……いや、急に呼び出して悪かった」

自分で呼び出しておきながらこうして目の前になまえが立っていることが不思議だった。卒業式の日以来スマホを使っての連絡を取らなかったのは、あれをひとつのケジメとするためだった。一方で、幾度なまえとのトーク画面を開いては二人で並んだ写真を見返したかも分からない。

このまま、ぎこちないながらもこの距離を維持していけると思っていた。それなのに、どこか遠くへ自分を置いていこうとしているなまえに、理不尽だと分かりながらも苛立ちが募る。

「一人暮らし始めるって聞いた」
「ああ、うん。そうなの」
「……なんでだよ。家からでも十分通えるだろ」
「そうだけど」

わざわざ呼び出してまでされる話がそれか、とでも思われたのかなまえの表情がわずかに翳った。それがさらに、なまえにとっては家を出ることなんてたいしたことでもないと思っているように見えて、ページワンは悔しさに歯噛みをする。

一体どこで間違ってしまったのだろう。
数年前まではこの公園で姉を含めて三人でよく遊んだものだった。いつだって自分の手を引いてくれていたなまえ。その光景を今でもこんなにも鮮明に思い描けるのは自分だけだというのだろうか。いや、なまえだって忘れたわけではなく、あの時間はもうただの過去になっただけのだと、そう言うのか。だからこんなにも簡単に繋いでいた手を放すのか。

「あの男と住むのかよ」
「違うよ」
「じゃあ、わざわざ家出る必要なんかないだろ」

駄々をこねる子供と対峙するかのように、努めて穏やかさを保とうとするなまえの声を聞いていられなくて、ふいと視線を逸らせば、手摺越しの道路にゆらゆらと光を照り返す水面を見た。逃げ水、そう思った時、なまえもまた同じなのだと分かってしまった。
そこにあると信じていたのに近づけば消え去り、決して触れることを許してはくれない。だってそれは熱情が見せた幻にすぎないのだから。

それでも追いかけていれば、いつか本当の水面に出会えるかもしれない。そう思っていたはずが、諦めてしまったのはページワン自身だった。本物だろうと幻だろうと、消えないでいてさえくれればいいなんて、ただの詭弁に過ぎなかった。本当はただ、手を伸ばすたびにするりと消えていかれることが怖くなっただけだった。

そうして重ねすぎてしまった言い訳は重く苦しく、「姉貴が寂しがる」なんて取ってつけたように言い放ってしまう。その瞬間、わずかになまえの瞳に険がこもる。

「ページワンくんは?」

茹だるような夏の空気を切り裂く鋭利な声だった。それがなまえから発せられたことに驚いてページワンが瞳を丸くすれば、なまえもまた自分の発言に戸惑っているようだった。そして我に返ったように口早に謝罪の言葉を述べる。

揺らぐ水面のように頼りなく、このまま消え去ってしまいそうななまえを前に、ページワンはほとんど叫ぶような心地で口を開く。だけど実際はそのほとんどが声にはならず、ページワンの掠れる吐息だけを耳にしたなまえは困ったように首を傾げた。逃げていかれなかったことに安堵しつつ、今度こそページワンは震えそうになる声を振り絞った。

「寂しい、ってそう言ったら、どこにも行かないでくれんのかよ」
「……急にどうしたの?」
「どうしたら、このままでいれる?」

なまえの瞳を縋るように見つめる。もう体裁なんて関係なかった。なまえさえ傍にいてくれるなら、この場で泣きじゃくって蹲ったってかまわなかった。ただもう一度、昔のように優しくその手で触れて欲しかった。


「──先輩?」


風を切るように凛とした声が響き、あと少しで届きそうだった水面が、また遠くに逃げていった。











遠ざかっていくなまえの後ろ姿と空中で円を描くように風に舞う落ち葉。散るには早すぎる青い葉が拒絶を重ねられた自分と合わさり、追いかけたいはずの足は竦んで動けない。

「あの、先輩」
「……あァ、悪い。ノートだよな」

気まずげながらも先に言葉を発したのは後輩の彼女だった。その声に、ページワンもなまえの消えていった角を見つめることを諦め、ゆっくりと振り返る。その時、とんと軽い衝撃が身体を襲った。

胸元に埋まる後輩の小さなつむじを目に留めて、彼女が抱きついてきたのだということを遅れて理解する。自分の身体にまわされた細い腕がかすかに震えている。
それを見つめながらページワンは、なまえへの寂寞が少しずつ和らいでいくのを感じていた。だけど、それでは駄目だったのだ。一方的な抱擁に安寧を求めようなんて、柔らかく温かな体温で己の侘しさを埋めようなんて、してはいけなかった。

あと少しで完成するところで欠けてしまったパズルのピース。それを似た形のもので埋めたかっただけだった。歪でも、不格好でも、その完成が見たかった。
だけど結局、埋め合わせた部分だけが浮ついて、馴染めないまま、すべてが崩れてしまった。諦めるのなら、そのパズルごと捨てなければいけなかったのに、身勝手な執着がそれを許せなかった。

「今のが幼馴染って人ですか」
「……あァ」

話したことのなかったはずのなまえの存在を後輩が知っていたことにページワンが驚きを示せば、胸から顔を上げた後輩は眉を下げて笑った。無理やりに貼り付けたような痛々しい笑顔だった。

「聞いたことはあったんです。卒業生に先輩と仲の良かった幼馴染の人がいたって」

後輩がページワンから離れ、涙を堪えるように空を仰ぐ。そのまま何度か深く呼吸を繰り返して、意を決したように二つの大きな双眸がページワンに向き直る。

「先輩が私のことをそこまで好きじゃないってことにも、本当は気づいてました」
「……それ、は」
「私が先輩のことを好きだって言うと、いつも少しだけ拍子抜けしたような顔をするんです。なんていうか、本当に欲しかったプレゼントが届かなかくて、代わりに別のものが来ちゃったクリスマスの子供みたいな」

そんな表情をしているつもりは一度だってなかった。だけど、自身の向けた愛に、同じだけの熱量が返ってこない苦しみはページワンもよく知っている。そんな思いをさせて、さらにはそれに思い当たりもせず勝手にその愛情に甘えていた罪悪感にページワンは返す言葉を見つけられずにいた。

「だけど、恋愛なんてお互いが同じくらい想い合うなんて方が奇跡じゃないですか。始まりは違ったって、これから一緒にいる時間の中で少しずつ擦り合わせていけたらいいなって」

そこで一度言葉が区切られる。込み上げた想いが喉に詰まっているのだと、聞かなくたって分かってしまう。
同じことを、ページワンだって思っていなかったわけではなかった。隣を歩く後輩を見ながら、こんな穏やかな日々が続いていけばいいと、ずっとこうして彼女が自分に向けて笑ってくれていたらいいと、嘘なんてつく必要もないくらいちゃんと願っていた。ただ、これを一つの愛の形として始めるための覚悟が足りていなかった。もっと絶対的で、痛くて、苦しくて、そして切実な愛を知ってしまって、それ以外を認めることが出来なかったのは誰よりも自分だった。

何も言えずに視線を俯かせるページワンの前で、後輩の彼女の目尻に溜まっていた涙が一粒だけ流れ落ちた。

「だから、これでいいって思ってたし、今でも思ってます。それじゃあ、駄目ですか?」
「……悪ィ」

そう答えることを分かっていたかのように、ページワンが口を開くと同時に、後輩は視線をなまえが去っていった方角へと投げやった。本当にページワンが欲しかったものが何であったのか、彼女にだってもう分かっているのだろう。

「あの人、彼氏がいるって言ってましたよ」
「わかってる。なまえとのことを今さらどうこうしようってわけじゃない。ただ……だからって俺たちがこのままでいいとは思えない」
「先輩はずるいくせに、どうして最後までずるくなりきってくれないんですかね」

吹き抜けた夏の密度の濃い風が、丁寧に切りそろえられた彼女の髪を揺らす。その顔に浮かんだ笑顔はやはり痛々しくて切なげで、だけどどこか晴れ晴れとしていた。