ドアをノックするところからやり直し



数え切れない人の行き交いを眺める。そのほとんどが自分とたいして歳も離れてはいないはずなのに、一律の制服を脱ぎ捨て、校則に縛られる必要もないその風貌だけで随分と大人に見える。

放課後、なまえの大学へと足を向けておきながら、ページワンは自分が何をしたいのかも漠然としていた。この人混みの中からなまえを見つけたとして、なんと声をかければいいのかも分からなければ、きっとそんな勇気もないだろう。ただ、それでもいても立ってもいられなかった。

彼女と別れ、なまえへの想いと向き合うと決めた。しかしそれは、決して今度こそなまえに振り向いてもらおうというわけではない。そんなのはとんだ思い上がりだと分かっている。
今はただ諦めへと向かうための時間なのだ。他の誰かでその虚しい隙間を埋め合わせるのではなく、自分の意思で、擦り切れた傷痕がゆるやかに再生していくために。

だからそう、今ページワンに必要なのは距離だった。無理やりに繋ぎ止めようとしていたなまえとの距離を正確に思い知り、手放した先のなまえがどこまで流れゆき、ページワンの視界から消えた先でもいかに幸せになることが出来るのかを突きつけられる。
そうして新しい深い傷──だけど決して治らないわけではない傷──を負う。今はまだそれが致命傷になっても、一生消えない傷になってもいいと思っているけれど、そんな切なる願いも含めて少しずつ癒えていってしまうのだろう。人の気持ちなんてそれくらい根強く逞しく、同じくらい柔く脆いものだと知っている。

ページワンは今ここで、新たに傷をつけてくれる何かを探しているのだ。なまえのいるはずの場所でその姿を見つけられないこと、あるいはその姿に声もかける資格さえ失った自分によって。言うなれば、生に縋り付くための自傷行為。その先でいつか、なまえへの苛烈で鮮明だった恋の記憶も、忘れるのではなく、過去のひとつとしてアルバムにしまいこんでいく。

そのとき、壁に凭れるようにして立っていたページワンの前に人が立ち止まる気配がした。いつの間にか人波から目を逸らし俯いていた視線を上げて、ページワンは瞠目する。

「お前は確か……」
「なまえ、の」

そこにいたのは、たった一度しか会っていないにも関わらず忘れられない男だった。長身痩躯で、その顔はどこか不健康そうに見えるものの端正に整っている。見間違いもしない、なまえの恋人だと紹介された男、トラファルガー・ローだった。

「アイツなら今日は休みだ」
「……いや、なまえに用があるわけじゃなくて」

なまえを親しげにアイツと称されたことに、今なお消えてくれない幼馴染としての矜恃が傷つけられる。こんな場所で立ち竦む自分よりもずっと、目の前の男の方が今のなまえのことを知っているのだ。

なまえの恋人である男は訝しむようにページワンを見下ろす。ただの幼馴染がわざわざこんな場所に何の用だと、そう思われているのだろうかと考えると居た堪れず、今すぐにでもここから逃げ出したい心地がした。
目の前のローもまた思わず声を掛けてしまったが、これ以上どうするべきか分からず、二人の間には何とも言えぬ気まずい沈黙が続く。

「……なまえは最近どうしてる」
「まァ、普通に元気だろ。時々メシに行くくらいだから詳しくは知らねェ」

共通の話題などなまえのことくらいしか思いつかず、ついそう尋ねてしまってから、これこそ幼馴染の分際で恋人に訊く話題ではなかっただろうと歯噛みをする。しかし、返ってきた答えにどことなく違和感を覚え、ページワンは眉をひそめた。

「よく知らねェって……付き合ってんだろ?」

ページワンの怪訝そうな問いに、ローはそんなこと今思い出したとばかりに、わずかにその瞳を大きくした。それから、如何にも余計なことに関わってしまったことを後悔していると言いたげな嘆息。

「……付き合ってねェよ」
「は? もう別れたのかよ?」
「まァ……いや……」

歯切れの悪いローの返答は、自分となまえの関係をどう示せばいいか分からないせいだった。いや、別に偽る必要もなく二人の関係は友人であると言える。ただ、なまえがこの幼馴染に対してわざわざ恋人などと嘯いた理由を知っていて、そう素直に真実を話していいのか図りかねていた。
そうやってしばらく目を閉じたまま逡巡し、結局そんな二人の都合など自分には関係ないことだと吹っ切った。

「もともと付き合ってなんてねェんだよ。勝手にいいように使われてるだけだ」
「なんで……そんなこと」
「それをおれに訊くのか?」

戸惑いのまま口にした言葉にローの表情が険しくなる。言外に非難されていることに気づきページワンは口を噤んだ。その一方で、少しずつ態度を和らげつつはあるものの最近ずっと機嫌の悪い姉のことが頭を過っていた。
なまえから直接話を聞きに行っていた姉が真実を知らなかったとは思えない。それでいて、ページワンのことも近くで見ていたのだ。ページワンの気持ちにはどこまで気づいていたかは分からないが、彼女を作っておきながらなまえのことを気にかける姿はひどく中途半端に映っていただろう。

──結局、全部ただおれが勝手に逃げていただけだった。傷が浅くすむように、甘えてばかりいた。

今さら気づいた己の甘さと身勝手さ。思わず俯きかけた時、今もこうしてなまえへの思いを諦めようとしていることもまた正しいのだろうかと不安になった。
なまえへの恋を忘れるために新しい恋をしようとして後輩を傷つけた。だから、今度こそ自分の力で蹴りをつけるつもりだった。

だけど、なまえは自分以外の誰かのものになったわけではなかった。それならまだ、縋っても許されるのだろうか。己の浅はかな過ちのせいで放されてしまった手を、今ならまだ掬い直せるだろうか。忘れるための傷ではなく、繋ぎ直すための傷──それを背負ってもいいだろうか。

「なまえの家、教えてくれ」

切実さの凝った掠れた声だった。周囲の雑踏に紛れてしまいそうなくらい、やっと絞り出したような声なのに、ローの耳にははっきりと届いてしまう。
一瞬ぴくりと眉を震わせ、それから大きな溜息を吐きだす。しかし、そこにはただの煩わしさだけではなく、慈愛にも寂寥似ながら、そんな言葉では表しきれない想いも込められていたことには、ページワンだけでなくロー本人も気づいてはいなかった。










等間隔に並ぶ街灯の下をページワンは歩いていく。夏も盛りを終え、季節の移り変わりを迎えようとしている。あの濃い密度はもう感じられず、かといって秋というほど澄み切ってもいない。夏の残滓があちらこちらに霧散し、溶け切るのを待っているような、そんな夜だった。

ローからなまえの住んでいるアパートを聞き出してから、一度家に帰り母親に友達の家に泊まって勉強をすると嘯いた。そうして足を踏み入れたなまえの暮らす町は、ページワンは今までほとんど訪れたことない場所だった。まばらに行き交う車のヘッドライトが明滅するように視界に映る。
駅からほど近いコンビニとコーヒーショップ、踏切、河川敷とその川にかかる橋。そうしたひとつひとつになまえの新たな生活の断片が思い起こされる。

緊張と期待を入り混ぜながら、肺の奥底から深く息を吐き出した。そして真っ直ぐに前を見据える。なまえを訪ねたところで歓迎されることはまずないだろう。なまえから突きつけられた二度の拒絶。それを思い返すと、今もまだ足が竦む。
それでも、もう逃げないと決めたのだ。綺麗に治る傷ばかりを探すのはもうやめた。何度も何度も抉りとるような傷、その先で本当になまえを苦しめるのなら大人しく引き下がることもあるだろう。だけど、わずかにも揺らぐ光があるのなら、何があってもその手を掴み取る覚悟が出来ていた。

大通りから逸れる角を曲がった先で、ページワンは足を止める。なまえの暮らすはずの部屋には柔らかいオレンジの光が灯っていた。