お揃いの傷跡を抱える
壁に凭れかかりながら夜空を見上げる。
夜も深くなった空気は芯から冷えるほどではないとはいえ、ひんやりと肌に沁みていく。背中を当てた壁からは物音ひとつ聞こえない。それでも、この向こうになまえがいるのだというだけでページワンは安心する心地がした。
突然の訪問に驚いた様子だったなまえから突きつけられたのは、予想通りの拒絶だった。玄関での押し問答の末、渋々という様子で招き入れられたなまえの部屋。その雰囲気は随分と実家にいた頃の部屋と変わっていた。最後になまえの部屋に足を踏み入れたのは、ページワンがまだ中学生の頃であったものの、ぬいぐるみ等が置かれた淡い暖色で統一された可愛らしい部屋であったはずだ。
それが、今日目にしたなまえの部屋はシンプルな色味で揃えられ、必要最低限の物しか置かれていないこざっぱりとした部屋だった。趣味や嗜好が変わったとも言えるのかもしれないけれど、それよりもページワンが感じ取ってしまったのは変わろうという強い意志だった。
まだ部屋に馴染みきらない家具や家電、スペースの広く空いた棚。それらと共に新たに始めていくのだと覚悟されていたのだろう。
ポケットに入れているスマホが一定の間隔を開けて何度も震えている。さっき確認したら、すべてが姉からの連絡だった。母には友人と勉強会だと話し納得されたけれど、今までそんなことをしたこともなかったことを姉に訝しまれたらしい。その上まだ後輩と別れたとも伝えていなかったので、ページワンが彼女と共に過ごしていると思い怒っていることがメッセージから読み取れた。
返信をしようとも思ったけれど、夜の凝った闇の中で人工的な明かりに照らされると、やけに自分だけが浮き立つような気がして一瞬だけ取り出したスマホは結局またポケットの中へとしまった。
ひとつ通りを逸れた国道から大型のトラックの揺れる排気音が時折耳に届く以外は何の音もしない。静かな町だ。今、なまえは何を考えているのだろう。それが自分に関することだということを、ページワンはもう疑いもなく信じていた。
なんて遠回りをしたのだろう。本当ならもっと綺麗な形で想いを伝える道があったはずなのに、そのすべてを見逃してきた。ただ関係が変わることに怯えて、大した努力もしないままに期待ばかりを押し付けていた。そしてそれに応えてくれなかったなまえに身勝手にも失望し、自分だけがこの恋で傷ついたような顔をして、無償で自分を好きだと言ってくれる優しさに甘えようとした。
ページワンを責めるなまえの声が蘇り、深く息を吐き出しながらその場に蹲る。それでも、あのなまえがあれほどまでに感情を吐露するくらい、わざわざ別の町に引っ越すことが必要だったくらい、自分のことを想い、わずかでも未練があってくれるのなら、狡くても不格好でも縋りたかった。それが罪過だというのなら、一生をかけたって償うから。
突然大きな音が耳元で響き、瞼を開けた。わずかな時間には違いないがいつの間にか眠ってしまっていたらしい。しゃがんだ姿勢のまま顔を上げると、そこに映ったのは、信じられないというよう瞳を丸くしたなまえだった。
あたりは青白い光に包まれ、ぼんやりと白けている。息を潜めて気配を殺すような夜の沈黙とは違い、動き出すために引いていく波を待つような静けさ。朝が来たのだ。
なまえに腕を引かれるようにして室内に招き入れられ、有無も言わさずソファに座らされた。勝手に待っていたのだから、もう一度突き放したっていいのに、こうして温かい飲み物まで用意してくれようとしているなまえにページワンは思わず少しだけ口許がゆるんでしまう。いつも手を握って歩いてくれていたページワンのよく知る面影と、今キッチンに立つその姿が重なる。
そんななまえから目を逸らしてポケットのスマホを確認する。夜が更けるごとに徐々に回数の減っていた姉からの連絡は何時間か前で一切途絶えていた。最後に届いていた通知の「帰ったらただじゃおかないから」の文字を見て、背筋が震える。
帰ったらかつてないほどの剣幕で噛み付いてくるであろう姉に、彼女と別れたこと、いや、そもそも彼女と付き合うことになった経緯からなまえへの想い。そして今こうしてなまえに会いに来たことまで含めてすべて話すことになるだろう。
ページワンに対して横暴でありつつ甘くもあり、そして賢しく厳しい姉は、ページワンの中途半端でどっちつかずだった行動をどう思うだろう。自分が選んだことのせいでなまえにも後輩にも無駄な傷を負わせてしまったことに言い訳をする気もなく、どんな叱責も受けるつもりではあるけれど、姉に軽蔑されるのは嫌だな、とページワンがわずかに瞳を伏せた時、テーブルの上に水色のマグカップが置かれた。
「……悪ィ」
マグカップの中でゆらゆらと揺れる黒檀色の液体。それに口をつければ温かなそれが身体の中に流れ込んでくる。そこで初めて、自分が思っていたよりも冷えていたことを知った。
何も言わず、ほとんど睥睨するようにページワンを見つめていたなまえが押し殺すように溜息を吐き出した。
「それ飲んだら、ちゃんと帰りなよ」
一晩外で待てばなまえがページワンのことを受け入れてくれるようになると思っていたわけではない。それでも改めて受ける拒絶は胸に刺さる痛みがあった。そんな想いが顔に出ていたのか、なまえは一瞬だけバツが悪そうに眉根を寄せる。
「……先に終わらせようとしたのはそっちでしょ」
「それで、終わらせられなかったんだろ」
分かっていた。悪いのは全部、たった一言の想いさえ口に出す勇気がなかった自分だ。だけど、それでも本当に、ただ失いたくがないために必死だった。がむしゃらになまえだけにこだわっていた。それくらい、ずっとなまえのことが──
「好きだ」
胸の奥底からこぼれ落ちた言葉は、掠れて、震えて、とても情けない声だった。それでも今の自分にはもう繰り返し言葉にすること以外何も出来ないのだと分かっていた。手を放し、遠くに逃げていこうとしていた透明な水面に、ほんの指先だけでもいいから届くことを願いながら。
「すぐに信じてくれなくても、伝わらなくてもいい。でも、何度だって言う」
ページワンの声を聞くことを拒むように首を振るなまえ。明るいミントグリーンのカーテンから洩れ出していた光が明るさを増し、青白くぼやけていた室内が輪郭の明瞭さを取り戻していく。
「本当に、好きだ」
「……やめて」
「なまえ」
伸ばしかけた手が拒絶され、ページワンはわずかに怯む。ページワンを睨みつけるなまえの瞳も、同じくらい傷ついたように揺らいでいた。
ページワンの裏切りを許せないという憎しみと、ずっと待ち望んでいた愛の言葉に逆らえない心。それらが入り交じって行き場をなくした想いが、表面張力で均衡を保っていた水面が崩壊するように溢れ出す。
「諦めるつもりだったの。遠く離れて、もう会わなければ、ゆっくりでも忘れていけるって、そう思ってたのに……なんでそんな」
「お、おい」
大粒の玉を作って流れ落ちるなまえの涙。それを拭う資格など自分にはないと分かりながら、もう一度伸ばさずにはいられなかったページワンの手をなまえが絡める。そしてページワンに向けて顔を寄せた。その瞬間、二人の唇が重なり合う。
今の柔らかな感触が口付けであると理解し、ページワンは反射的に顔を赤らめる。向かい合うなまえはどこか自嘲するように口角を歪めた。
「……今の」
「好きだよ。私だって、ずっと大好きだった」
愛の言葉を吐露するというよりも、罪を告白する罪人のような重苦しい声だった。ページワンの想いを受け入れたのではなく、封じこみきれなかった自分の想いに抗えなくなったことに屈し、同じ咎を背負うことを覚悟したのだろう。
なまえの唇がもう一度ページワンに近づけられる。ページワンもまた、何も言わずにそれに応えた。重なり合った唇に恋人同士のような甘さも慈しみも残らない。かつて美術の授業で眺めた資料集の禁じられた果実を分け合う原始の男女の姿。それが今やけにはっきりとページワンの頭に思い返されていた。きっと、これもまた同じなのだ。罪を分け合う誓いとしての口付け。
これから先、こうして自分が撒いてしまった種が二人の行き先に茨を生やし続けるのかもしれない。何度も何度も棘が傷を抉り、時にはなまえさえ傷つけていくのだろう。
だけど、もう離しはしない。傷だらけになった手を何度だって握り直す。なまえもまた同じだけの傷を背負ってくれたのだから。
窓の向こうで町の動きだした喧騒が聞こえ始める。ページワンはなまえの手を強く握りしめ、そんな朝の町に背を向けるようにその身体を抱き寄せた。