あったかもしれない未来の話
諦めたように笑う女だった。
なまえとローが初めて顔を合わせたのは全学部共通科目のグループワークの講義だった。しかし、ただその程度の繋がりであれば、なまえのことも他の学生と何ら変わらず、講義さえ終わればさっさと記憶から漏れ出していただろう。
だからローがなまえのことをしっかりと記憶に留めた最初の瞬間は、混みあった昼時の学生生協で買うつもりであったはずの菓子パンを横から現れた学生に取っていかれた瞬間を目撃したときだった。
宙を切った自分の手のひらを見つめて諦めたように笑った顔が、やけにはっきりと記憶に残った。
それからローとなまえは顔を合わせれば、少し話をするような仲になり、なまえに部屋を紹介する約束をした日も、混雑した食堂で偶然知り合いを見かけたから声をかけたに過ぎなかった。
それを柄にもなく自分のテリトリーに引き込むような真似をしてしまったのは、家を出ると言ったなまえがまた諦めたように笑ったからに違いなかった。
自分はどうもなまえのこの顔に弱いらしいと、やけに客観的に思ったことを覚えている。
「キャプテーン、聞いてますー?」
「……聞いてねェ」
「そこは嘘でも聞いてたとか言ってくださいよー」
駅前のファミレスでいつものように集まったシャチとペンギンの声でハタと我に返る。後ろの席で騒ぐ高校生の集団の声を聞いているうちに、思考の海を漂っていた意識がしっかりと現実に足をつけていく。
「で、何の話だ」
「なまえさんですよ、あれから連れてこないなーって思って」
「別にそう頻繁に会うもんでもねェだろ」
話題がちょうどなまえのことであったことに少しだけ驚いたものの、それを悟らせることもなく、すっかり冷めたコーヒーに口をつける。
なまえを二人の前に連れてきた日からもう二ヶ月近くが経とうとしている。引越しが終わってすぐの頃はよくどちらかの最寄り駅の近くで待ち合わせて食事にも行ったものだけど、それも最近では大学以外で会うことはなくなっていた。もちろん大学内であれば顔を合わせば声もかけるし、食堂で一緒になることもある。
ただ、用もなく連絡をしなくなったり、ふたりで食事に出かけたりすることをしなくなったのはなまえなりのケジメなのだと分かっている。自分から誘ってこないだけで、ローが誘えばここに顔を出すこともあるだろう。だけど、わざわざそんなことをするものでもない。
学内で見かけたなまえの幼馴染、そして後日その幼馴染と付き合うことになったと報告に来たなまえの姿を思い出して、ローは軽く肩を竦めた。
「それにこんな男ばっかのとこに連れてきたら、相手の男にも悪いだろ」
「えっ、なまえさん彼氏いるんですか?」
「まァな」
驚いて大声をあげたシャチを視線で諫めれば、慌てて口元を両手で押さえた。隣のペンギンも声こそ出さなかったものの意外だと言いたげなのが表情に出ている。
「うわー、おれ、キャプテンとなまえさんはお似合いだと思ってたのにー」
「その彼氏って、キャプテンも知ってるんですか?」
「……顔くらいはな」
そう言って視線を窓の向こうの景色を眺めるように逸らす。季節はすっかり秋を深め、もうすぐそこに冬の気配さえ感じられるようになっていた。
向かいの公園の紅葉を過ぎた木々からひとつふたつと落ち葉が舞い上がる。何故か勝手に肩を落とすペンギンとシャチの姿をそのガラス越しに映し見て、ローは軽く鼻で笑った。
ふたりと別れてから家に帰る途中の駅で降りて、レポートに必要な医学書を探すために大型書店に寄る。目当ての本を数冊抱えて店を出ると、陽は傾き始め、薄い雲が引き伸ばされるように広がる秋の空が仄かに朱を帯び始めていた。
駅まで続く線路沿いの道にカンカンと踏切の閉まる音が響く。今しがた発着した電車から降りてきたのであろう人はみな足早にローの隣を過ぎ去っていく。空を染め上げるオレンジ色に照らされて、どことなくはやる気持ちで家路についているのだろう。一方でローは、暮れゆく秋の気配を感じるほどにその足取りが緩やかになっていく。
ふと足を止める。向かいから歩いてきた人影を見つめて、それが奇しくも今日やけに自分の頭の中に登場した女であったことにローはわずかに面映ゆい気もした。
「よォ」
「おー、ローだ。珍しいね、こんなところで会うなんて」
駆け寄ってきたなまえは軽く小首を傾げてから、ローが小脇に挟んだ大型書店の袋を見て納得したように頷いた。そんななまえも肩に食料がいっぱいに詰まったエコバッグを提げている。
引越しの手伝いに行った日、あの部屋からは最寄りのスーパーが遠いと嘆いていたなまえの姿が自然と思い起こされる。自転車を買おうかと悩んでいたけれど、まだ買ってはいなかったようだ。
「持つか?」
その細い腕には重そうな荷物を顎で指しながらローがそう言うと、なまえはわずかに表情を明るくして口を開きかけ、しかしスグに固く結び直した。そしてゆっくりと首を振る。
「ううん、大丈夫」
その瞬間、なまえが浮かべた笑顔から目が離せなかった。
あの諦めたようにやるせない笑顔ではなく、芯の通った強い意志のある屈託のない笑顔。夕日に照らされた二人の影が並んで伸びているのが視界の端に映る。
ああ、とローは心の裡で低く嘆息する。なまえのあの諦めたような笑顔に弱いらしいと勝手に思い込んでいたけれど、実際はそうではなかったのだ。本当はただ、こんなふうに憂いのない笑顔を見たかっただけだった。そんなことに今さら気づいてしまった。
「ロー?」
いきなり黙ってしまったローの顔を不思議そうに覗き込んできたなまえ。その姿に一瞬何かを掴みそうになって、慌てて手放した。違う、それは自分のものではないと、言い聞かせるように回想から現実へと戻ってくる。
「なんでもねェ。じゃあな」
取り繕うように肩を竦めて別れを告げれば、なまえもまた笑顔を浮かべて空いている方の手を振った。
「うん、またね」
お互いがそれぞれの向かうべき方向に歩き出す。遠ざかるなまえの足音を聞きながら、ローはふと足を止めた。蜂蜜を零したような夕陽の光が足元に湛えられている。こんな光の前で足を進めることを躊躇っていたなまえを見たことがあった。目指すべきポラリスを見失い難破してしまった船の上にいるかのような頼りない背中。
お似合いだと思っていたと言っていたシャチの声が甦る。なまえとローはそんな関係ではなかったし、ローがなまえに対して抱いていた想いは決して愛だの恋だのではなかった。
ただ、なまえと過ごす時間をそれなりに気に入っていたことも事実だった。だから、あと少し踏み込んでいればこの想いは愛になっていたのかもしれない。
振り返ってみれば、なまえは夕陽に溢れて黄金色の海のような道を真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いている。肩にかけた荷物を多少重そうにしながら、それでもこれは自分の背負うべきものだと胸を張るように。
恋になっていなくてよかったと思う。
おかげで、あの幼馴染になまえの家を教えることを躊躇わずに済んだし、後悔もしていない。そして何より、なまえがもうあの諦めた笑顔を浮かべなくてよくなったことを素直によかったと思うことが出来た。
遠ざかるなまえから目を逸らし、自分が歩くべき道に向きなおる寸前、ローは微かにその口の端に笑みを浮かべた。それはひどく優しく、そしてどこかもの寂しさを残した微笑みだった。