傍に居るのに居ない
夕食後、急にコンビニ限定のアイスが食べたくなってスマホと財布だけを持って家を出た。夜になっていくらか気温は下がったものの、蒸し暑い夏の空気が肌にまとわりつく。
道端の小石を蹴ると、ころころと転がってすぐに側溝に落ちた。それを目で追ってから顔を上げると、通りの向こうから見慣れた制服姿の影がこちらに向かって歩いてきていた。
ページワンくんだ、と思ったのと同じタイミングで彼も私に気づいたらしく目が合ってしまう。そうなれば自然と足が止まり、彼もまた私と向かい合う位置で立ち止まった。
人工的な明かりを照らす街灯の下で二人分の影が並んで伸びる。
「今帰り? 遅かったね」
「……まァ」
歯切れの悪いその返答に心の奥がざわつく。これ以上聞くのは傷つくだけだと分かりながら、どこかでそれが杞憂であることに期待している。瘡蓋の下の傷がもう治っているように、ぶつけた痣が押しても痛くないように、そう願っても結局は何度も傷を抉っていくだけなのに。
「もしかしてデートだった?」
「……やっぱり姉貴、話したよな」
「あはは、すごい怒ってた」
がくりと項垂れたページワンくんが大きな溜め息をつく。それから窺うように私を見て「迷惑かけて悪かったな」と謝った。それになんと答えようかと少し悩んで、結局何も言わずに小さく首を振った。
「恋愛するのはいいけど、あんまり遅くまで遊びすぎちゃ駄目だよ」
「ちげェよ……テスト近いからファミレスで勉強してただけで」
彼女と、とは言わなかったけど、おそらくそうなのだろうということは雰囲気から伝わってくる。後輩の彼女に勉強を教えてあげたりしたのだろうか。
顔も知らない彼女とページワンくんが、ドリンクバーとちょっとした軽食だけで何時間もファミレスに居座る姿を想像する。勉強そっちのけでお喋りなんかして、時々真面目に問題を解いて、それからやっぱりまた二人で声を潜めて笑い合うんだろう。
その彼女を自分に置き換えてみようとしたけど、上手く想像することは出来なかった。たぶん、こういうところが駄目だったんだろうな、と今更ながらに反省する。彼を好きな気持ちだけは立派にあるくせに、幼馴染以外での彼との接し方をあまりに知らなすぎた。
夜空を見上げると、月もないのに星はほとんど見えなかった。代わりにチカチカと点滅する飛行機が通り過ぎていく。
「そっか、高校生はテストの時期か」
「そっちはどうなんだよ」
「テストはまだかな。レポートとかはちょっとあるけど」
「そうじゃねェって……ほら、彼氏とか」
少し口ごもった彼の言葉に、私もまた上手く言葉を見つけられない。私が彼女の話を出したのだから、自然な流れなのかもしれないけど、失恋したばかりの相手とする話題としてはあまりに惨めすぎる。
遠くなのか近くなのかとも分からない場所から蝉の声が夜の闇に反響する。ふと、何かの本で、蝉は気温と明るさで鳴くのだと読んだことを思い出した。だからつまり、どこかで今が昼だと勘違いしてしまった蝉がいるのだ。
本当は暗い夜の中で、自分だけが明るい太陽の下にいるのだと信じている。それは可哀想なのだろうか、それとも幸福なことなのだろうか。
そんなどうでもいいことばかりが頭の中でぐるぐるして、彼の質問へ答えるための言葉は出てこない。
いっそ、彼氏がいることにしてしまおうか。そんなことまで考え出した時、急に腕を掴まれてページワンくんの方へと引き寄せられた。
突然のことに呆気に取られていると、背後から自転車が通り過ぎていく。
「……ライトくらいつけろよな。危ねェ」
「そう、だね」
少し震えてしまった声を気にとめた様子もなくページワンくんの手が離れていく。Tシャツからむき出しの腕に直接触れた彼の体温が生々しく残って、熱く焼け切れてしまいそうだった。
心臓は高鳴りを続けているけれど、これでさっきまでの会話は一区切りになったようで、彼氏がいるともいないとも答えずに済んだことには少し安心した。
「じゃあ、私はそろそろ行くね」
そう言って立ち去ろうとすると、思い出したとばかりに一瞬、あっ、と彼が声を漏らした。それにつられて、私もまた足を止める。
「どこ行く気だったんだよ」
「コンビニ行こうかなって」
「……おれも行く」
「え、なんで? 今帰ってきたとこじゃん」
近所のコンビニはこの道を進んだ先で、ページワンくんがが通ってきたはずの道にある。目の前を通ったのだから用があれば寄っているはずだ。
首を傾げる私を察しの悪い子供を相手するように一瞥してから、仕方なさそうに肩を竦めた。
「遅せェし、危ないだろ」
すとん、とその言葉が胸に落ちて、ゆるやかに体温を奪っていく。そうか、これが私たちの距離なのだ。随分と遠くに行ってしまったと思っていた彼とのリアルな距離が何よりその言葉に象られている。
もう姉とは思っていないけど、夜道を一人で歩くのは危ないと思うくらいには異性だと気遣われていて、それでいて何も始まらなかった。
少し前の私なら喜んで彼と並んで歩いていたことが、今となってはいっそ可笑しかった。昼と夜を取り違えた蝉と同じだ。そんなもの可哀想でもなければ幸福でもない。ただ浅はかで、愚かなだけだ。
「駄目だよ」
自分でも意外なほど平坦な声が出た。拒絶されるとは思っていなかったのか、彼は戸惑ったように動きを止め私の言葉の続きを待っている。
蝉の声がジージーと鼓膜にこびりつき平行感覚を失いそうになって、意識的に足を踏み締めた。
「幼馴染だからって、彼女がいるのに他の女に優しくするのは良くないよ」
まるで諭すように微笑み、今度こそ彼を置いて歩き出す。背後で砂を踏む音が聞こたけれど、彼が追いかけてくることはなかった。
夏の夜の空気は密度が高くて喉に張り付く。上手く酸素が取り込めず、息が苦しい。
結局、買いに行ったはずのアイスはもう食べる気にならなくて、別に欲しかったわけでもないやけに甘ったるそうなジュースだけを買って帰ってきた。
立ち止まって彼のいるはずの部屋を見上げる。そこに灯った柔いオレンジの明かりが目に沁みて、急に止めどなく涙が溢れ出した。
うるちゃんが来たあの日、一人になってみたらやけに冷静になってしまい、ただぼんやりと彼のことを考えただけで涙は出なかった。それが今になってこんなに泣けるのは、結局私は未だに信じきれていなかったということなのだろう。
彼がもう他の誰かのものだということを今更になって実感して、気を抜けば崩れ落ちんばかりに泣きじゃくる。近所に聞こえないように押し殺した嗚咽が喉に詰まって、何もかも吐き出してしまいそうだった。
ようやく落ち着きを取り戻し始めて再び顔を上げると、瞳に残った涙が視界のすべてを鈍く歪めた。
遠くに行かなければいけない。そう、強く思った。
それはもう衝動的に、押し寄せる怒涛のように、このままではいけないとその考えだけが全身を貫く。よく聞くような髪を切るなんかでは甘い。とにかく、今の私に必要なのは物理的な距離だ。
こうして彼の部屋を見上げて、視界に入れる距離にいることを安心するようでは駄目だ。だから、遠くに行こう。気軽に彼と会ってしまうことがないように。また彼と並んで歩けるような夢など見ないように。
そして、私のことなど好きにはなってくれない彼から無遠慮に傷つけられる事がないように。